琵琶湖は“日本最大の物流インフラ”だった

まず、信長は安土にどのような価値を見いだしていたのかを見てみたい。

信長が琵琶湖周辺に着目したのは、安土城築城より早かった。1568年の上洛後、反信長勢力との戦いが激化する中で、信長はしばしば琵琶湖東岸に立ち寄っている。目的地は、かつて六角氏の居城・観音寺城の外港として栄えた常楽寺港(現在の滋賀県近江八幡市)すなわち、後の安土城の外港となる場所だった。

なぜ常楽寺だったのか。その答えは、琵琶湖そのものの地政学的な価値にある。

琵琶湖中部湖岸(琵琶湖国定公園第2種特別地域)、滋賀県近江八幡市長命寺町にて
琵琶湖中部湖岸(琵琶湖国定公園第2種特別地域)、滋賀県近江八幡市長命寺町にて(写真=663highland/CC-BY-SA-3.0-migrated/Wikimedia Commons

琵琶湖は単なる湖ではない。この時代、琵琶湖は日本最大の物流インフラだった。湖上を行き交う船が、京都と東国・北陸を結ぶ大動脈として機能していたのだ。湖の東岸には北陸・東国・伊勢を結ぶ複数の街道が交差し、湖の西岸には比叡山下の坂本が京への入口として機能していた。つまり琵琶湖を制することは、都への物資の出入りを掌握することであり、同時に北陸・東国への流通ルートを手中に収めることを意味した。

後に信長が、明智光秀に坂本を与えたことも、この文脈で理解できる。坂本は京と湖内交通の結節点であり、ここを押さえることは京都支配の生命線を握ることと同義だった。信長が琵琶湖周辺の支配を天下布武の最重要課題と位置づけていたことは、その配置からも明らかだ。

六角氏が育てた商業インフラに、織田の権力を乗せる

なにより、琵琶湖東岸の交通の要衝に、すでに先進的な経済圏が形成されていた。

楽市楽座は信長の発明のように思われているが、実は六角氏が1549年に観音寺城下で史上初めて実施している。信長よりおよそ20年早い。その先進的な商業政策がすでに根づいていた土地の外港が、常楽寺港だった。六角氏はこの港を通じて琵琶湖水運と陸上交通を結びつけ、湖東地域に繁栄をもたらしていた。

信長は更地に城下町を作ろうとしたのではない。すでに機能していた経済圏を接収し、自らの支配下に置こうとしたのだ。六角氏が育てた商業インフラの上に、織田の権力を乗せる……それが信長の戦略だった。

その延長線上に、安土城の築城がある。天正4年(1576年)、信長が選んだのは常楽寺港に隣接する安土山だった。琵琶湖の水運を眼下に収め、湖東の街道網を掌握できるこの場所に、信長は前代未聞の巨城を築いたのである。

近江国蒲生郡安土城之
近江国蒲生郡安土城之(写真=岩崎鴎雨画/大阪城天守閣所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

さらに信長は、戦略上も拠点を京からは少し離れた琵琶湖沿岸に置くことを重視していた。滋賀県安土城郭調査研究所の所長を務めた研究者の近藤滋は、こう記している。