安土城は“朝廷に対峙する最前線”
信長は、源平の争乱や南北朝の争乱など、過去の政争が武家社会への朝廷や公家衆の介入に端を発していたことが多々あったことを知っていたものと想像できます。その上で歴史に「もし」が有ったとしたら近江・美濃・尾張と摂津・河内・和泉との間に朝廷を置くこととなり、後堅固の戦略に反することとなります。
故に逢坂・山中越えに対する坂本、朽木谷、若狭に対する大溝、北国街道に対する長浜と、その要に全琵琶湖を一望し、背後に八風・千草街道を控えた湖東地域に、後の幕藩体制下での彦根城や膳所城を配したと同様、この琵琶湖を最前線として京=朝廷に対峙する拠点安土城が必要であったと考えられます。(近藤滋「安土城と琵琶湖 安土築城の背景について」『滋賀県安土城郭調査研究所研究紀要2005』)
先に記した通り、発掘調査で判明している安土城下町の様子を見ると、その後の江戸時代の城下町に比べて居住区域も十分ではなかった。これを踏まえると、信長が中四国を平定した後は、居城をもっと京都や大坂に近いところに移した、あるいは海外進出を睨んで堺あたりに拠点を構えたのではないか……そんな見方もある。
「天下はここから動かす」実利を伴ったシンボル
しかし近藤は、そうした見方を退ける。
信長にとって安土は「とりあえずの拠点」ではなかった。琵琶湖を最前線として朝廷を抑え、東国・北陸・畿内への街道をすべて掌握する。その戦略的核心こそが安土の本質だったのだ。城下町の未整備は、信長が安土を見限っていた証拠ではない。城はまだ完成したばかりで、整備はようやく端緒についた段階だった。むしろ信長は都市を育てることより、琵琶湖という巨大なインフラを支配することに本質的な価値を置いていた。
そう考えると、安土城の本質が見えてくる。あの絢爛たる天守閣は、見栄でも威圧でもなく、交通と流通を掌握した権力者が「天下はここから動かす」と宣言するための、実利を伴う旗印だったのである。
しかし本能寺の変が、すべてを止めた。いかに常楽寺港という良港があり、街道の結節点という地の利があったとしても、そこに人を呼び集める吸引力の源泉は信長その人だった。その信長が消えた瞬間に、城下町の発展も止まった。
ここに、安土という都市の本質的な脆弱性があった。

