運命を変えた新聞記事

1983年、愛知県名古屋市生まれ。則竹は、戦後に祖父母が創業した精米業者「名古屋食糧」を営む家に育った。名古屋大学で農学を学び、卒業後は阪和興業で、エネルギー関連の営業に3年間携わる。

2009年、家業に入社。だが当時、国内の米市場はすでに縮小に転じ、業界全体にじわりと閉塞感が広がっていた。

入社から3年。ある日、自宅の一室で新聞をめくっていた手が、ふと止まる。

〈愛知県田原市の農家が、タイであきたこまちを栽培〉

日本米は、日本でしか作れない。そう思い込んでいた前提が崩れた。則竹は衝動に駆られ、記事に名前のあった田原市の農家に電話をかけた。数日後に訪ねると、思いもよらぬ言葉が返ってきた。

「3日後にタイへ行く。一緒に来るか?」

タイで日本米。この目で確かめたい。すぐに航空券を手配した。

タイの巨大財閥からの誘い

ラオス国境に近いタイ最北の地・チェンライ。山々に囲まれた盆地に、朝霧が立ちこめていた。

則竹が案内されたのは、日本米の試験圃場だった。南国の強い日差しの下、あきたこまちの苗が根を張っている。その圃場を管理していたのが、国民的ビール「シンハー」を擁するタイ最大級の財閥、ブンロード社だった。

本社の一室で、日本人顧問が切り出した。

「新規事業として、タイで日本米を作りたい。いま、そのパートナーを探しています」

2012年当時、タイは和食ブームの最中にあり、日系飲食店は約2000店に達していた。市場にはタイ産の「あきたこまち」や「ささにしき」も出回っていたが、品質は安定していなかった。則竹の話を受け、ブンロード社は名古屋食糧の精米技術に注目した。二度目のタイ訪問で、則竹は同社の社長(現会長)、サンティ氏と対面する。提示された条件は、明快だった。

「生産への投資はこちらでやる。だから、日本の精米技術を持ち込んでほしい」

タイで、日本米づくりを産業として根づかせる。その構想の入り口に、則竹は立っていた。

現地で食べた“日本米”への静かな怒り

市場調査のため三度目に訪れたバンコク。その日、昼下がりの日本食レストランで、則竹は目の前の茶碗を見つめていた。米はぱさつき、ところどころ割れ、うまみも感じられない。隣の席のタイ人客に声をかけた。

「そのごはん、おいしいですか?」
「はい」

屈託のない笑顔が返ってきた。

「これが、この国で日本米だと信じられているのか……」

胸の奥に、怒りにも似た感情が込み上げる。その後も何十件も日本食レストランを回ったが、どれも自分が知る味ではなかった。

「タイの人に、ちゃんとした日本米を食べてほしい」

その瞬間、則竹のなかで静かに火がついた。

「よそ者」に向けられた冷たい視線

タイで日本品質の米は作れるのか。則竹は月に一度チェンライへ通い、試験栽培に踏み出した。ブンロード社が用意したのは、2ヘクタールの圃場。栽培指導は田原市の農家が担い、則竹は精米と商品化の設計を引き受けた。

2ヘクタールの圃場から始まった試験栽培。2年にわたり栽培条件を検証し、最適な育て方を探った
写真提供=則竹さん
2ヘクタールの圃場から始まった試験栽培。2年にわたり栽培条件を検証し、最適な育て方を探った