一見不合理な選択に着目
アートパラダイムになり個人だけではなく、企業や組織でも「自分」が重要になってきています。これまでに数十社の企業のコアバリューの策定を支援してきましたが、コアバリューとは企業の「自分」探しのようなもので、企業は競合分析のしすぎや多角化によって、「自分」がよく分からなくなっているケースが多いのです。
他社にはないその企業の「本来的なつとめや性質」。他社でも提供できる価値しかない事業や会社は、究極を言うとつぶれても誰も困らず、代替可能であるということになってしまいます。そういう意味で「自分」は企業の存在意義そのものです。
組織、特に企業は、自らが及ぼす社会的影響について責任を果たすうえで必要な能力は、すべて身につけておかなければならない。しかし、それ以外の社会的責任の分野においては、行動の権利と義務は自らに固有の能力によって限定される。
特に組織は、自らの価値体系に合致しない課題に取り組むことを避けなければならない。
ピーター・F・ドラッカー『マネジメント』
企業や組織に「自分」という言葉を使うのは不思議な感じがするかもしれません。組織は人の集合体ですし、常にその構成員が入れ替わっているので、「自分」とは言えないような気がするのです。
しかし、一人の人間も毎日3000億個の細胞が入れ替わっているとも言われています。よく考えれば一つの個体にみえても構成要素が常に入れ替わっている。
その点では「法人」も一緒なのです。構成員が入れ替わりながらも、継承され、更新されつつ強化され続けているもの、それが「自分」です。
同業他社でも中に入ると空気のちがいを感じることがあります。こういった空気はどうやってつくられるのでしょうか。
企業の意思決定は合理的にされていると思われがちですが、数字やデータの比較だけでは実は意思決定されず、一見不合理な選択がされることがあります。
そうした価値観の根っこにあるのが「自分」であり、またその積み重ねでその会社の「らしさ」が強化されていきます。
ありたい、あるべき「他分」を捨てる
個人や組織の「自分」探しのワークショップで最も難しいのが、「他分」を捨てることです。「自分」の特徴を書き出してもらうと、その中には「こうありたい」という理想的な自分の投影や、本当はそうではないのに「そうあるべき」と倫理や常識から出された特徴がかなり混在します。
そして、多くの場合、人はそういった「ありたい」「あるべき」を捨てたがりません。それがあるほうが安心だからです。しかしたくさんの「他分」に埋もれた状態では、核になる「自分」はみえてきません。
いくつか特徴をあげたら、その中から本当の「自分」以外のものはどんどん捨てていきます。この作業を「棒倒し」と呼んでいます。ポストイットに書き出されたたくさんの特徴の中から軸をみつけ、二択で勝ち抜き戦をしながらどちらかを捨てていくのです。
ポイントは、どちらも「自分」、と言いたくなるところをあえて二者択一することです。どっちもはダメですか? と聞かれますが、厳しく二者択一をしてもらいます。どちらかを必ず捨てる、という作業を通じて「自分」が研ぎ澄まされていくのです。
このとき基準とするのは、「いいか悪いか」ではなく(そうすると「ありたい」や「あるべき」を残してしまいます)、どちらがより「自分」らしいか、で考えます。
こうしてどんどん「他分」を捨てていきます。「肩書き」や「役職」は変わっても「自分らしさ」はなくならないのですぐ捨てられます。
あるところまでは迷いなく捨てることができますが、ちょうど砂浜に棒を立てて砂を取る「棒倒し」遊びのように徐々に取るのが難しくなってきて……最後のギリギリ、この砂を取ると棒がパタンと倒れてしまう! という瞬間がやってきます。
これを取られたら「自分」じゃなくなる! という最後の最後に残るのが「自分」です。

