幕府も両者を名指しで誅伐対象に

同様に、『保暦間記』も、「隠岐先帝ノ宮、天台座主〈号大塔宮〉、山々ヲ廻テ義兵ヲ挙、河内国住人楠正成ト云者アリ、彼ヲ語フテ河内ト大和ノ境ニ金剛山ト云山ニ城郭ヲ構テ、畿内近国ノ勢ヲ語フ」と記します。『神皇正統記』も護良親王の挙兵→楠木正成の籠城を続けて叙述しています。

事実、12月9日、楠木正成は河内国金剛寺から祈祷巻数きとうかんじゅ(僧が願生の依頼に応じて読誦どくじゅした経文などの題目を記して願生に送った文書)を送られて、これを護良親王に進上するとしています。護良親王が金剛寺に度々祈祷依頼をしていたこと(令旨を発給していたこと)は、元弘3年(1333)2月23日付けの楠木正成書状(「金剛寺文書」)からも確認できます。

同様のケースは、和泉国松尾寺からもうかがえます(『徴古雑抄ちょうこざつしょう』所収「松尾寺文書」)。さらに、元弘2年12月26日、護良親王は和泉国久米田寺からの祈?申請を受け、「官兵狼藉」を停止する内容の令旨を発給しますが、翌年(1333)正月5日、やはり楠木正成がこれを久米田寺に伝えています。

また、楠木正成が捕縛した紀伊国の武士(保田やすだ氏・生地おんじ氏)たちが、護良親王の配下(祗候人しこうにん)となり、楠木正成の籠る金剛山を攻めていた紀伊国の武士の住宅に火を放った事例や、護良親王の側近(四条隆貞しじょうたかさだ)と楠木一族などが共闘して摂津せっつ天王寺てんのうじにまで攻め込んだケースも確認されています(上横手:1983年)。

ゆえに、幕府も「大塔宮おおとうのみや幷楠木兵衛尉正成」と、両者を名指しで誅伐ちゅうばつ対象としていたわけです。

強調される後醍醐天皇と楠木正成の関係

このように見てきますと、楠木正成は後醍醐天皇というより、むしろ、護良親王と一蓮托生の関係にあったのではないかと思えてきます。

この点、「太平記は大塔宮と正成との関係について、ことさらに面を向けるのを避けているようにもみえる」として、「なぜ太平記が大塔宮と正成との関係について、特に触れようとしなかったか」を問題にしたのが、岡部周三さんでした(岡部:1975年)。

岡部さんは、第一に「太平記作者が大塔宮をあまり評価しなかったこと」、第二に「太平記が正成を超人間的な、作者好みの理想人に仕上げてしまったこと」を挙げます。

とくに、第二につき、「太平記は、正成が天皇の夢想という神秘的事件によって、見出された忠臣であり」、「いまさらに大塔宮とのつながりをのべる必要はない」と述べていたことは注目されます。

これを受けて今井正之助いまいしょうのすけさんは、いずれも妥当な見解であるとしたうえで、「いますこし、物語の枠組みから」見てみるならば、「正成は後醍醐の霊夢によって〈太平記世界〉に登場する」以上、「決定的なのは後醍醐との関わりである」とします(今井:1978年・1991年)。

後醍醐帝/笠置山皇居霊夢之図
『後醍醐帝/笠置山皇居霊夢之図』尾形月耕(画像=Robert O. Muller Collection/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

太平記』の描写は、「正成一人」によって、後醍醐天皇の「聖運」は開くとしますので、後醍醐天皇と楠木正成のつながりの印象は強烈です。

要するに、『太平記』は後醍醐天皇を主役とする物語であり、そのなかで楠木正成は後醍醐天皇との結びつきが強調されて登場する、(いわばその分身)という構図になっています。そうである以上、かえって(リアルな)護良親王と楠木正成の関係は後景に退いている、ということでしょう。