楠木正成は、鎌倉幕府の関係者だった

他方、楠木・楠の地名が意外なことに河内国内外には見当たらず、建久元年(1190)には「楠木四郎」なる人物が武蔵国の武士と並びで見えていることから、もともと楠木氏は東国出身で、鎌倉幕府に仕える武士だった可能性が指摘されました。

そして、正応6年(1293)、駿河国に「楠木村」が見え、幕府(北条氏)が鶴岡八幡宮に寄進していたことから、駿河国と楠木氏の関係が推定されるにいたります。

さらに、二条道平にじょうみちひらの日記『後光明照院関白記ごこうみょうてらしいんかんぱくき』元弘三年(1333)閏2月1日条に、「楠の木の根ハかまくらになるものを枝をきりにと何のほるらん」との和歌が記録されていて、時期的にちょうど幕府軍が楠木正成を攻撃しに関東から攻め上ってきた頃のものであるため、楠木氏の根は鎌倉にあることが(その後、河内国に移ってきたということが)、当時の人々の共通認識だったとうかがえます。楠木氏=東国出自説は、信憑性が高まってきました。

一方、河内国に「楠木石切場くすのきいしきりば」との地名(小字)が見つかって、そこが中世に遡る石切場跡であったことから、楠木氏のルーツとも関係するのではないかと、近年、堀内和明さんによって指摘されています(堀内:2002年)。

貴重な指摘ですが、当該地名が中世に遡るかは不明で、楠木氏の伝承が地名に転化した可能性もあり、慎重に検討していく必要があるでしょう。

いずれにしても、楠木正成の評価は「忠臣」から「悪党」ときて、さらに鎌倉幕府関係者だと理解・議論されるにいたっています。当時の武士は一般に鎌倉幕府に従い、土地の支配に加えて流通・交通とも広くかかわる存在ですが、楠木氏もそうした武士の一人と考えられているのです。

村上氏同様、楠木氏も本来は幕府方であり、そのような人々が反幕府方に移行していったため、後醍醐天皇や護良親王に味方した勢力も、必ずしも最初から一貫して反幕府ではないのです。

護良親王と楠木正成の一体性

そうした楠木正成ですが、後醍醐天皇の忠臣として知られていて、事実、『増鏡』には元弘元年(1331)8月の後醍醐天皇の山城やましろ笠置山かざまやま動座に際して、「ことのはじめよりたのみおぼされたりし楠木兵衛正成」と見えます。

その直前には、楠木正成が和泉国の荘園に侵入していますが、その荘園は元来後醍醐天皇が道祐僧正に与えていた場所であり、後醍醐天皇─道祐─楠木正成というつながりがうかがえます。

また、翌年(1332)冬の楠木正成の挙兵も「楠兵衛尉正成ト云勇士、叡慮ヲウケテ」河内国金剛山に立て籠もり「錦ノ御旗ヲアゲ」たのだと『梅松論』は述べています。

このように、楠木正成が後醍醐天皇とつながっていたことは確からしいのですが、楠木正成が当時より一層明らかに連絡・協力していたのは護良親王であり、両者の関係は無視できません。

護良親王
護良親王(画像=CC-PD-Mark/ Wikimedia Commons

元弘元年(1331)9月、後醍醐天皇のよる笠置山は幕府軍の攻撃により陥落。他方、河内国では楠木正成が籠城し、護良親王が合流しています。しかし、10月、幕府の大軍を前にこちらも落城し、両者は逃走します。

そして、護良親王と楠木正成の両者は、翌年(1332)冬頃から反幕府活動を本格化させていきます。

このあたりのことを『増鏡』は、「大塔の法親王、楠の正成などは猶おなじ心にて、世をかたぶけんはかりごとをのみめぐらすべし」として、楠木正成が、「さて大塔の宮の令旨とて、国々の兵をかたらひとれば」と記します。この二人が同心・協力している様子がうかがえます。