楠木正成は、鎌倉幕府の関係者だった

他方、楠木・楠の地名が意外なことに河内国内外には見当たらず、建久元年(1190)には「楠木四郎」なる人物が武蔵国の武士と並びで見えていることから、もともと楠木氏は東国出身で、鎌倉幕府に仕える武士だった可能性が指摘されました。

そして、正応6年(1293)、駿河国に「楠木村」が見え、幕府(北条氏)が鶴岡八幡宮に寄進していたことから、駿河国と楠木氏の関係が推定されるにいたります。

さらに、二条道平にじょうみちひらの日記『後光明照院関白記ごこうみょうてらしいんかんぱくき』元弘三年(1333)閏2月1日条に、「楠の木の根ハかまくらになるものを枝をきりにと何のほるらん」との和歌が記録されていて、時期的にちょうど幕府軍が楠木正成を攻撃しに関東から攻め上ってきた頃のものであるため、楠木氏の根は鎌倉にあることが(その後、河内国に移ってきたということが)、当時の人々の共通認識だったとうかがえます。楠木氏=東国出自説は、信憑性が高まってきました。