信長に疑われていたわけではない
志賀郡の中心で比叡山の門前町でもある坂本は、延暦寺を押さえる要の地であると同時に、天下(当時は畿内周辺を意味した)の東端で、まさに京都を中心とした天下を押さえるべき最重要地だった。交通の面でも、「天下」に運ばれる物資が琵琶湖の水運を利用して集まる重要な港町で、近江および北陸と京都を結ぶ陸上交通の要地でもあった。
この時点では光秀はまだ、京都にいる義昭との連絡役という役割も負っていただろう。だが、だからといって信長は、よほど信頼している家臣でなければ、これだけの要地をまかせない。
そして光秀は坂本に城を築いた。水上交通を意識し、琵琶湖畔に築かれた壮大な水城で、本丸には信長の安土城に先立って、高層の天守がそびえた。イエズス会宣教師のルイス・フロイスは『日本史』にこう記している。
「明智は、都から四里ほど離れ、比叡山に近く、近江国の二十五里もあるかの大湖(琵琶湖)のほとりにある坂本と呼ばれる地に邸宅と城塞を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった」(松田毅一・川崎桃太訳)
むろん、信長の家臣の築城は、信長の意向の反映であり、信長の許可がなければ、壮麗な天守を建てることなど許されなかった。
光秀は信長の家臣のなかでも特別な位置に躍り出た。そして、しばらくその地位を保つ。人間だからなんらかの悩みは抱えていただろうが、「信長に疑われている」という悩みだけは、その後、何年も抱えなかったのではないだろうか。


