実は朝倉義景のもとに10年居住した
光秀の前半生については、あまりわかっていない。光秀が討たれて100年以上経過してまとめられた『明智軍記』には、美濃(岐阜県南部)の守護、土岐氏の庶流である明智光綱の子、と書かれているが、そう記す根拠があいまいなのだ。
『兼見卿記』をはじめ同時代のいくつかの史料を総合すると、室町幕府の奉公衆だった明智家の庶流の生まれで、その明智家は美濃にゆかりがあり、土岐家に仕える家柄だったと思われる。
年齢だが、光秀の時世の句と伝えられるのが「順逆無二の門。大道心源に徹す。五十五年の夢。覚め来れば、一元に帰す」というものだ。すなわち55歳で死んだと思われ(諸説あり)、そのとおりなら享禄元年(1528)の生まれということになる。
若き光秀が越前(福井県北東部)の朝倉家と縁があったのはまちがいなく、『遊行三十一祖京畿御修行記』には「越前朝倉義景を頼み申され、長崎称念寺門前に十カ年居住」と記されている。では、その時期はいつか。
将軍・足利義昭に仕えたきっかけ
山田貴司氏は、近年発見された光秀口伝の医術書『針薬方』をもとに推定する(『ガラシャ』平凡社)。これを足利義昭に仕える米田貞能が書写したのは、永禄9年(1566)10月20日で、それより前に光秀は、田中城(滋賀県高島市)に籠城した折、沼田清延に口伝していた。『針薬方』の文面には、「朝倉家之薬」という表現も見られるため、光秀が越前に居住したのは、田中城に籠城する前ということになる。
では、なぜ田中城に籠城したのかだが、一緒に籠城した沼田清延は義昭に仕える人物。そのころ、南近江(滋賀県南部)の高島郡の領主で、足利将軍家に忠実な朽木家や田中家が北近江の浅井長政に圧迫されており、その事態を収拾すべく義昭が、田中城に清延と光秀を送り込んだ。山田氏はそう読む。
そうであれば、光秀が義昭に仕えるようになったのは、遅くとも永禄9年10月より何カ月か前になる。その後、ほかの将軍家がらみの史料にも「足軽衆」「明智」という名が見られるようになる。ちなみに、この場合の「足軽」はこの語が一般的に表す雑兵のことではなく、当時の幕府において、末席ではあるが一定の身分を表すという。
永禄11年(1568)に義昭が信長とともに上洛を果たすと、光秀も義昭に供奉して京都に移る。そして将軍側近として地位を高めるとともに、信長の家臣らとともに京都の政務や軍事に関わっている。当時の政権が義昭と信長の連立であったため、光秀はそれぞれに「両属」するようになったのである。

