実は朝倉義景のもとに10年居住した

光秀の前半生については、あまりわかっていない。光秀が討たれて100年以上経過してまとめられた『明智軍記』には、美濃(岐阜県南部)の守護、土岐氏の庶流である明智光綱の子、と書かれているが、そう記す根拠があいまいなのだ。

『兼見卿記』をはじめ同時代のいくつかの史料を総合すると、室町幕府の奉公衆だった明智家の庶流の生まれで、その明智家は美濃にゆかりがあり、土岐家に仕える家柄だったと思われる。

年齢だが、光秀の辞世の句と伝えられるのが「順逆無二の門。大道心源に徹す。五十五年の夢。覚め来れば、一元に帰す」というものだ。すなわち55歳で死んだと思われ(諸説あり)、そのとおりなら享禄元年(1528)の生まれということになる。