早々に宇佐山城の城主に

「豊臣兄弟!」での光秀は、信長のもとで戦いながら義昭への報告も怠らないなど、「信用ならぬ奴」にも見える。じつは、そのことは史実としても確認されており、たとえば、浅井長政に裏切られ退却(金ヶ崎の退き口)を余儀なくされた越前への出兵時。出陣して織田勢として戦った光秀は、途中で戦況を記した書状を、義昭の側近に送っている。

だが、それ以後、義昭との関係は次第に薄れ、信長だけに仕えるようになる。そうなったのは、「豊臣兄弟!」で描かれたように義昭の差し金によるものではなく、信長の要求に応えた光秀が、短時日に信長の厚い信頼を勝ちとったからだと思われる。

「豊臣兄弟!」の第16回でも言及されるが、元亀元年(1570)9月、宇佐山城(滋賀県大津市)を守っていた信長の家臣の森可成が、浅井・朝倉の連合軍に討ちとられてしまう(落城はしなかった)。その報に接して、急ぎ摂津(大阪府北中部から兵庫県南東部)での三好攻めから引き上げた織田勢は、しばらく浅井・朝倉勢と対峙したのち、12月に義昭の仲介で和睦した。

その間、光秀は織田勢の一員として多くの戦闘に参加して功績があったようだ。そして元亀2年(1571)の正月までに、信長は宇佐山城を光秀にあたえている。

太平記英勇伝 森三左エ門可成(落合芳幾作)
太平記英勇伝 森三左エ門可成(落合芳幾作)(写真=東京都立図書館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

極めて異例の厚遇

宇佐山城は比叡山に近く、前城主の森可成は京都の代官だったので、光秀の起用にはその役割を継承させる意味もあったと思われる。こうして光秀は、長光寺城(近江八幡市)の柴田勝家、佐和山城(彦根市)の丹羽長秀、横山城(長浜城)の木下秀吉らとともに、近江における織田方の防衛および戦闘態勢の一翼をになうことになった。

加えて京都の代官も務めるのだから、新参の家臣としては、きわめて異例の厚遇というほかない。信長がいかに光秀の能力を買い、信頼を置いていたかがわかる。

その後、同じ元亀2年(1571)9月12日に強行された、比叡山延暦寺の焼き討ちにいたる。浅井・朝倉勢を支援する延暦寺に対して信長は、前年9月、織田勢に味方するか中立の立場をとるかしないかぎり、焼き討ちすると宣告しており、延暦寺が応じないので実行に移したのだ。

比叡山にある最澄ゆかりの法華総持院東塔。
撮影=プレジデントオンライン編集部
比叡山にある最澄ゆかりの法華総持院東塔。

この焼き討ちに際し、光秀にあたえられた役割はわからない。ただ、焼き討ち前には宇佐山城を拠点に周囲の領主たちを調略し、従わなければ「なてきり(なで斬り)」にすると強い調子で迫っている。相当な覚悟で臨んでいたことが伝わる。

そして、比叡山が壊滅したのち、京都との接点にあたる近江国志賀郡の支配が、郡内の延暦寺の所領もふくめて光秀にまかされたのである。

比叡山延暦寺の国宝・根本中堂は現在、大規模改修中。
撮影=プレジデントオンライン編集部
比叡山延暦寺の国宝・根本中堂は現在、大規模改修中。