「突然輿をとめて女中を押しのけた」
これを書いた小瀬甫庵は、完全に「見てきたような嘘をつく」タイプの江戸時代のライターである。現代で言えば、炎上した企業の最後の取締役会を、誰の取材もなしに「社長は静かに盃を傾けながら……」と書くような記事と同じ構造だ。全員死んでいるのに。
もうひとつ、その最後を記録したとされるのが『溪心院文』という史料(東京大学史料編纂所 編『大日本史料』第11編之4 東京大学、1932年所収)である。これは、お市の娘である、お初(常高院)に養育された川崎正利の孫である溪心院の書き取ったもの。そこには、その最後がこう記されている。
御むめさまは御十三、御十一、御九つのよし、左様さ殿御申され候。御いおさま(五百様)は御ひめさまは、御同道にて御出あそばされ候へども、御いおさまは仰せには、小さい殿時分出させられ候へき候は、何とて御出あるべきや、左様さ殿御一所さの御事に候。
御ひめさまは、うしろより御出しなされ候。ちくせん守(筑前守)殿の御ふ長公(信長公)御かたおんの御人にて候間、あしくいわめされまじく候。
ちくせん守殿へ御私のわかさ(若狭)を候半さて、御いなさは御まちうけにて御書を御そへなされ候。御ひめさまは御うらさを御こし、一つに御めさせまし、女中のおらには、さようによて御供いたし候へども、初めて御三の間まで御おくりあそばされ候。
との外御うつくしく、御さし頃は御若に御廿二、三にも見えさせられ候。この事、できのちんえも、おくさまは、御出なさて、とつさを(突如)らき、御こし女中をさおし申候。この事、御いちはわい、左様さ殿御一所さ、御おもてへ被成ごの事、御どもの女中二三人の事
現代語訳:「姫君たちは13、11、9歳です」と殿(勝家)が申されました。お市様は「小さい殿(勝家)と一緒に死ぬと決めた。なぜ出ていけるものか」と仰った。姫君たちは後ろから出されました。「筑前守(秀吉)殿は信長公のご恩のある方だから、悪くはなさるまい」と。
筑前守殿へお市の私的な書を添えて、姫君たちはお輿に乗せられ、女中がお供しました。最初は御三の間までお送りになりました。
(お市は)とても美しく、その頃は22、23歳にも見えた。城を出た後、輿に乗せられた姫君が突然輿をとめ、女中を押しのけて母のもとへ戻ろうとした。この事は、お市が、殿(勝家)と一緒に死ぬと決めた後、姫君たちを見送った場面の、女中2、3人だけが見ていた話である。

