「天下一の美人」は事実だった

つまり小豆袋の逸話は、信長に滅ぼされた朝倉の旧臣が「自分たちは悪くなかった」と言いたくて作り上げた話が出発点である。お市の人物像は、敗者の自己正当化のために動員されたのだ。

だが、それだけではない。この逸話が後世に広まり、繰り返し描かれてきた理由がある。読む側にとって、あまりにも「美しい話」だったからだ。兄への忠義と夫への愛の狭間で揺れる美しい女性……この図式は、江戸時代の読者にも、現代のドラマ視聴者にも、等しく刺さる。

結果、気づけば、創作が史実を上書きして現在に至っているのである。

なにしろ、お市に関する資料は本当に少ない。実名すら一次史料には残っておらず、前半生はほぼ不明である。確実にわかるのは、浅井長政に嫁いだこと、小谷城落城時に3人の娘と共に生き延びたこと、信長の死後に柴田勝家と再婚したこと、そして賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れた後、北ノ庄城で共に自害したこと程度である。

いや、それでも安心してほしい。様々なフィクションで採用される「天下一の美人」というキャッチフレーズは、事実だったようだ。

このことは『祖父物語』という資料(近藤瓶城 編『史籍集覧』第13冊 近藤出版部、1906年に所収)、近藤瓶城編『史籍集覧 總目解題 改定』(近藤出版部、1921年)に書いてある。この本は「尾張国清須朝日村の人柿屋喜左衛門、其祖父の物語を録せし書にして、豊公当時の実記なり」とされている。

浅井長政夫人(お市の方)の肖像画
浅井長政夫人(お市の方)の肖像画(写真=高野山持明院蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

“庶民の言い伝え”に残っている

つまりこれは、尾張の庶民・柿屋喜左衛門が、祖父から聞いた話を書き留めたものだ。

いうなれば「おじいちゃん、昔の話してよ」と孫がせがんだら、祖父がこんな話をした、という体である。そこにはこんな記述がある。

太閤ト柴田修理ト取合ハ其比威勢アラソイトモ云又信長公ノ御妹オ市御料人ノイハレナリトモ申ナリ淀殿ノ御母儀ナリ近江ノ国浅井カ妻ナリケル浅井ニハナレサセ玉ヒテ御袋ト一所ニオハシケルカ天下一ノ美人ノキコヘアリケレハ太閤御望ヲカケラレシニ柴田岐阜ヘ参リ三七殿ヘ心ヲ合セオイチ御料ヲムカエ取オノレカ妻トス

現代語訳:太閤(秀吉)と柴田修理(勝家)の対立は、当時の勢力争いによるものとも言われるが、信長公の御妹・お市御料人のことが原因とも言われている。お市は淀殿の母君であり、近江の浅井長政の妻であったが、浅井と別れた後は(信長の)御袋様と同じところにお住まいであった。天下一の美人との評判があったため、太閤(秀吉)が望みをかけていたところ、柴田(勝家)が岐阜へ赴き、三七殿(織田信孝)と心を合わせ、お市御料人を迎え取って自分の妻とした。

武将でも公家でもない、尾張の普通の庶民が孫に語って聞かせた話である。ということは、「お市は天下一の美人」「秀吉が狙っていた」「勝家に横取りされた」という話が、当時の井戸端会議レベルで広く知られていたことを意味する。