実際は「政治ゲームの駒」

現代風に言えば、こんな感じだろうか。

「お市さん勝家に取られたの草 秀吉さんあんだけ強いのになんで負けたん」
「てか勝家岐阜行って信孝と根回ししてたらしいじゃん えぐくない?」
「秀吉さん天下取りかけてるのにここだけ負けるの人間味ありすぎる」
「お市さんが天下一の美人なのはガチらしい 見てみたかった」

そんな「投稿」が、SNSも新聞もない時代に、津々浦々に口伝えで広まっていた。公式記録には名前すら残らなかった女性が、庶民の記憶には「天下一の美人で、秀吉と勝家が取り合った女性」として鮮明に生き続けていた。これは興味深い逆説である。

もっとも、現代のSNSと同様、噂話はだいたい間違っている。

「秀吉と勝家がお市を取り合った」庶民の口コミはそう伝えたが、史料が示す実態は少し違う。お市は争奪戦の主役ではなく、政治ゲームの駒だった。

最初の結婚、浅井長政への嫁入りは、信長が上洛のための同盟を結ぶための政略結婚である。そこには、お市に選択肢はなかったと考えたほうがいいだろう。

史料が語るのはシンプルだ。信長が浅井と同盟を結び、その証としてお市を送り込んだ。それだけである。お市がどう感じたか、長政をどう思っていたか、兄への忠義と夫への愛の間で葛藤したかどうか、そういったことは、ひとことも出てこない。

福井県福井市にある柴田神社のお市の方像
福井県福井市にある柴田神社のお市の方像(写真=nnh/PD-self/Wikimedia Commons

「信孝と結束を固めるため」の政治的一手

つまり「兄と夫の間で揺れた悲劇のヒロイン」は、後世が作り上げたキャラクターである。史料の中のお市は、ただ「送られた」。主語は常に信長であり、お市は目的語でしかない。

では再婚は? 庶民は、天下一の美人をめぐって秀吉と勝家が争ったなどと噂をしていたが、実態はそんな、のほほんとしたものではなかった。

教科書などの概説書では、清須会議のあと、秀吉と勝家の対立が高まり賤ヶ岳の戦いへと至ったと平易に記述している。しかし、史実はもっと複雑である。清須会議で決まったのは、せいぜい互いに今争うのはやめておこうと決めた程度に過ぎなかった。尾下成敏「清須会議後の政治過程――豊臣政権の始期をめぐって――」(『愛知県史研究』第10号、愛知県、2006年)では、会議後の不穏な情勢を検討している。

尾下論文が一次史料から明らかにするのは、秀吉・丹羽長秀・池田恒興の3人が1582(天正10)年10月21日の時点でグループを形成し、信雄を「御代」として担ぎ上げて主従関係を結んでいたという事実である。一方、勝家は信孝と組んで対抗軸を形成しようとしていた。

お市の再婚が動いたのは、ちょうどこの時期である。1582(天正10)年10月6日付の勝家書状には「秀吉と申し合わせ、主筋の者との結婚へ皆の承諾を得た」とある。つまりお市との婚儀は、清須会議後の権力闘争が本格化する直前、勝家が信孝との結束を血縁で固めるための政治的一手として打たれたのだ。信孝にとってお市は叔母にあたる。お市を妻に迎えることは、勝家と信孝の同盟を形式上も不可分なものにする意味を持っていた。