病気は試練でも罰でもない

病気というのは、神さま・仏さま・阿弥陀さまが私たちを試すために与えた試練でもなければ、日ごろの行いの悪さをこらしめるための罰でもありません。

当たり前だと思うかもしれませんが、これだけ技術の進んだ現代でも、「神罰」とか「仏罰」があると考える人たちは少なくないのです。

そう考えることで、「試練に打ち勝つ」「もう罰当たりなことはすまい」と前を向けるなら構いませんが、不幸感が増すようなら、そう考えないほうがいいでしょう。

そもそも阿弥陀さまは、億単位の人たちの思いや行動を見て、試練や罰を与えるほど暇ではないでしょう。それでも何かの伝言と思いたいなら、

「自分自身を見つめ直す時間をくださった」

と捉えるのがいいかと思います。

じつは、かくいう私も、罰が当たったかと思ったことがあります。

2年ほど前に股関節の変形性関節炎になり、痛みで正座ができないほどでした。正座ができないと、お勤めができず致命傷です。それで「これは何かの罰か試練か」と悩んだのです。

しかし、ほどなく気づきました、正座をせずにお経を称えるお坊さんが意外と多くいらっしゃることに。

それまで私は、お寺さんに随行してお勤めするなかで、正座をしてピクリとも動かない状態が当たり前だと勝手に思い込んでいたのでした。

お坊さんであっても、年を取れば、体のあちこちが痛みます。正座ができなくなったり、腰痛で座るのがつらくなったりすることもあるでしょう。

だとしたら、椅子に座ってやればいい。どんな姿勢をとろうと、お勤めしていることに変わりはないのです。ある意味、股関節痛はお勤めの本質に気づくきっかけを与えてくれたのでした。

みなさんも病気やケガをしたら、少し立ち止まって、自分自身の仕事や将来を見つめ直してみるといいでしょう。何か気づきが得られるはずです。

病気を起点にやりたいことを考える

病気になると、重症度にかかわらず、気持ちが落ち込むものです。「何もやる気になれない」というのが本音でしょう。

私が悩みを聞いた重病のある男性もそうでした。

書影
増田将之『その悩み、ただの執着』(三笠書房)

この方は長期の入院をされており、家でもいままでのようにはうまく動けませんでした。いつも介護をしている奥さんは常に笑顔でしたが、それが余計に辛く、「私がいない方がよいのではないか」と考えていました。

しかし、奥さんはそんなことは一つも思わず、この方と一緒にいる時間をとても大切にされていました。

今まで仕事人間だったこの方は、こんなに奥さんと深く接することがなかったそうです。

しかし、病気になったことで、やっと奥さんとの時間がかけがえのないものだということに気づき、一緒に趣味を楽しむなど、何かやりがいを見つけたようでした。

私の父も余命宣告を受けましたが、「自分の足で歩き続けたい」「まだ畑仕事がしたい」など、活力に満ちあふれ、いまもとても楽しそうな人生を生きています。

「病気になったからこそ、いまを懸命に生きよう」

そう考えて、病気を起点に新しい人生を切り開けばいいのです。

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