老いとはどのように向き合うといいか。浄土真宗本願寺派僧侶の増田将之さんは「わずかでも心身の衰えを感じたら、それを受け入れないと、かえって老化を意識せざるをえなくなる。豊富な経験を蓄積してきた分、判断力や洞察力が磨かれていると捉え、どっしり構えていればいい」という――。
※本稿は、増田将之『その悩み、ただの執着』(三笠書房)の一部を再編集したものです。
「老い」とは、それ相応につき合いなさい
「不老不死」――この言葉から、私たちは生物学的な「老い」と「死」を連想します。それで「ありえない」と断じます。
仏教ではこう考えます。
「四苦の一つである老いからは決して逃れることはできないので、それを受け入れ、向き合い、相応につき合うことがよい」
みなさん、50歳をすぎたころから、老いを意識し始めるようです。意識というより、「年を取りたくない」という老いへの嫌悪感でしょうか。それに合わせて、「自分はまだまだやれる」と、若さへの執着が強くなるような気がします。
要するに、自身の老いに気づきながらも、すんなり受け入れられない、といったところでしょう。
しかし、誰しも確実に年齢は積み上げられていきます。これが現実なのです。
この真理を前に、時計の針を戻すことも、その動きを遅くすることも不可能です。受け入れるしかありません。たとえば、
「ちょっと近くが見えにくくなった。老いかな」
「足腰が弱くなった。老いかな」
「集中力が続かないし、持続力も衰えてきた。老いかな」
「脂っこいものを食べると、胃がもたれるようになった。老いかな」
といった具合に、わずかでも心身の衰えを感じたら、それは間違いなく「老いの兆し」なのです。
こうした老いを受け入れないと、かえって老化を意識せざるをえなくなります。
自分では若いつもりでいても、うまくいかないことが出てきます。そのたびに「こんなはずじゃなかった」とイライラすることが増えるのです。しかも、若いときと同じように行動しようと焦れば焦るほど失敗する。そうなるのが目に見えています。

