裏切りの原因は信長にある

「豊臣兄弟!」の時代考証を務める柴裕之氏はこう書く。

〈浅井氏はこの時、織田・朝倉両家と両属関係を持つ国衆であったことは間違いない。/そしていま、浅井が関係を持つ織田・朝倉両氏が抗争することになった。この状況下で、浅井氏が領国「平和」を維持していくためには、両属関係のままでは難しく、織田・朝倉両家のどちらにつくか、選択することがせまられた。そして、浅井氏が選んだ「道」は、朝倉家への従属関係を優先することだった〉(『織田信長』平凡社)。

二者択一の決め手はなんだったのだろうか。太田浩司氏は、先に引用した信長の毛利元就への覚書にヒントを見出す。あの覚書には、〈近年別て家来せしむるの条〉(近年、自分の家来にして)と記されていた。それについて、太田氏はこう指摘する。

〈信長は浅井を家臣だと思っていたのである。浅井側にしてみれば、独立した一大名でありながら、秀吉や光秀同様、信長の家臣として扱われる。これが、どうしても許せなかったのだろう。浅井氏は一信長の家臣となることを拒むために、挙兵したと考えるべきだろう〉(『浅井長政と姉川合戦』淡海文庫)。

信長は〈深重隔心無く候き〉(心隔たりなく付き合ってきたのに)と、長政の裏切りがまったく腑に落ちていないようだったが、要は慢心から、心隔たりなくしすぎたということではないだろうか。家臣のようにあつかわれたら、浅井家の家臣にも示しがつかなかったことは、容易に想像がつく。

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