史料に残る信長の「ウソに違いない」
史料として信頼度が高い太田牛一の『信長公記』には、次のように書かれている。
〈木目峠打ち越し、国中御乱入なすべきのところ、江北浅井備前、手の反覆の由、追々、其の注進候。然れども、浅井は歴然御縁者たるの上、剰へ、江北一円に仰せ付けらるるの間、不足あるべからざる条、虚説たるべしと、おぼしめし候ところ、方々より事実の注進候〉
(木目峠を越え、越前中央部に進攻するはずが、北近江の浅井備前守長政が離反したという情報が次々と寄せられた。しかし、浅井はれっきとした縁者で、そのうえ北近江一帯の支配を許していたのだから、ウソに違いない、と信長は思ったが、方々より事実だという情報が寄せられた)
浅井長政の裏切りが伝えられたのは、おそらく4月28日で、信長も木下藤吉郎らも命からがら退却するのだが、それから2カ月以上経って、信長自身が毛利元就に送った7月10日付覚書にも、浅井長政についてこう書いている。
〈近年別て家来せしむるの条、深重隔心無く候き、不慮の趣是非無き題目に候事〉
(近年、自分の家来にして、心隔たりなく付き合ってきたのに、思いがけず理不尽な結果になってしまった)
心隔たりなく付き合ってきた義弟が「まさか、ウソだろ‼」というのが、信長の偽らざる気持ちだったことがわかる。
ドラマで「ありえない」と思ったシーン
ところで、朝倉攻略に発つ前月、信長が相撲大会を催したのは史実である。『信長公記』に次のように記されている。
〈三月三日に江州国中の相撲取を召し寄せられ、常楽寺にて相撲をとらせ、御覧候。(中略)鯰江又一郎・青地与右衛門取り勝り、これに依つて、青地・鯰江召しだされ、両人の者に熨斗付の大刀・脇差を下され、今日より御家人に召し加へられ、相撲の奉行を仰せ付けらる〉
(3月3日、信長は近江国中の力士を集めて、常楽寺で相撲をとらせて観覧した/鯰江又一郎と青地与右衛門が勝ち抜いたので、彼らを召し出し、金銀飾りの太刀と脇差を賜り、この日から家臣として召し抱え、相撲奉行に任命した)
じつは信長は相撲好きで知られ、常楽寺での相撲は本能寺の変の前年まで、毎年続けられた。ただ、信長自身が相撲をとったかどうか、浅井長政も一緒に観戦したかどうかは、史料からはわからない。
「豊臣兄弟!」では、長政は何度も信長に挑みながら、常に投げ飛ばされて、1回も勝つことができなかった。史料に記録はないが、2人が相撲を取り合うくらい親密な関係だったとしても不思議ではない。だが、「豊臣兄弟!」には、信長と長政との関係で、史実では「それだけはありえない」という描写があった。
