本田宗一郎にも働かない時期があった

豪快に怠けることすらできない自分に呆れつつ、思うわけだ。本田宗一郎はすごいって。

おいおい、おまえ、何でここで本田宗一郎が出てくるんだよと激しく指摘されそうだが、べつに起業したいわけでも、車をつくりたいわけでも、ましてやF1に参戦したいわけでもない。

「世界のHONDA」は本田宗一郎に意地でも働かない「サボり期間」がなければ生まれなかったといっても過言ではないのだ。

本田宗一郎といえば本田技研工業(以後、ホンダ)の創業者だ。「人まねはするな」「役所には頼るな」「世界を目指せ」などいわゆるホンダイズムを徹底し、ホンダを世界企業に一代で躍進させた。

1989年12月25日、これまでの自動車人生と現在の心境を語る本田技研工業(通称:ホンダ)の創業者・本田宗一郎氏
写真提供=共同通信社
1989年12月25日、これまでの自動車人生と現在の心境を語る本田技研工業(通称:ホンダ)の創業者・本田宗一郎氏

トヨタにムカついていた宗一郎

宗一郎は1906(明治39)年、静岡県に生まれる。1922(大正11)年に高等小学校を出ると、東京・湯島の自動車修理工場「アート商会」に勤め、自動車の修理技術を身につけた。

1928(昭和3)年に故郷・天竜近くの浜松に戻り、アート商会浜松支店(後に東海精機重工業)を設立する。

やがて修理業に飽きたらず、自動車部品のピストンリング製造に乗り出す。ピストンリングはエンジンのピストンの外周にはめる部品だが、その納入先がトヨタだった。

トヨタとホンダといえば今ではライバルだが、当時は取引先だったわけだ。トヨタから部品に欠陥があると指摘された時、宗一郎はトヨタの工場に行き、ピストンを調べ、ピストンリングではなくピストンそのものに欠陥を見つけた。

「トヨタのピストンの方が悪いんだ、と言ってやった」と宗一郎は後に部下に語っている。1945(昭和20)年に戦争が終わると、自社(東海精機)の株をすべてトヨタに売り、縁を切る。

宗一郎は日本経済新聞の名物コーナー「私の履歴書」に「戦時中だったから小じゅうと的なトヨタの言うことを聞いていたが、戦争が終わったのだからこんどは自分の個性をのばした好き勝手なことをやりたいと思ったからである」と書いている。「小じゅうと」とはかなり辛らつだが、よほどムカついていたのだろう。