妻子持ちの38歳で「ヒモ生活」に突入
そこから、ホンダのサクセスストーリーが始まるかと思いきや、宗一郎がホンダの前身となる「本田技術研究所」を始めるのは1946(昭和21)年の9月まで待たなければならない。
東海精機の株をトヨタに売却してから、1年余りのブランクがある。何をしていたのか。何もしなかった。本当に何もしなかったのだ。
とはいえ、「何か少しはビジネスにつながることをやっていたでしょう」と思われるだろうが、本当に何もしなかった。
1945(昭和20)年9月に「人間休業宣言」として、「仕事はしない、1年間、遊んで暮らすから、食べさせて」と妻のさちに言い放ち、1年間何もしなかった。38歳の妻子持ちとは思えない発言である。
「会社を売ったのならば金があるし、生活に困りませんものね」と嫌味もいいたくなるが、それも違う。
東海精機の株は45万円で売った。だが、宗一郎は「これは大切なお金だから、つかっちゃいかん」と全く手を付けなかった。つまり、収入もなければ、資産も崩さない。
当然、さちは生活費を貰えなかったので、自宅敷地で野菜をつくり、米は自分の実家から調達した。この話だけを切り取ったら、宗一郎、マジでヒモであるが、実際、ヒモさながらの生活だった。
軒下で1日中ぼーっとして、合成酒を飲む
どんな毎日だったのか。ドラム缶入りの医療用アルコールを買い、自家用の合成酒を作って友人と飲み、昼は尺八のけいこや将棋に励んだ。といっても、1日は長い。やることがなければ、軒下で1日中座り、ぼーっとした。
さすがに見かねた妻のさちから「暇ならば草くらい抜いてくださいよ」といわれても、1本だけ抜いて、おしまいという日もあった。令和のサラリーマン家庭ならば離婚必至のふるまいだ。
あくまでも1年間だけの「休業」なので、全く隠居していたわけではない。頼まれれば、重い腰を上げた。磐田の警察学校で科学技術担当の講師として無給で教えた。講義の後は生徒たちと合成酒を飲んだ。
遠州灘の海岸で電気製塩してコメと交換したり、自宅の野菜畑の周りに野菜泥棒対策に電流鉄線の栅をつくったりした。だが、重い腰を上げたところで、その程度である。
さちは当時を振り返り、「本当に働かなかった。お父さんらしいのはアルコールに煎った麦と杉の葉を入れてウイスキーっぽく工夫するところ。実際にやったのは私ですけど」と証言する。酒すら自分でつくっていなかったのである。

