その“こだわり”が心の枷になる
仏教では、すべては縁が集まった結果であり、その縁は次々に変わるため、結果は同じ状態を保てないという「諸行無常の法則」を長く説きつづけています。
この法則は、物事は否応なく変化してしまうにもかかわらず、家庭や仕事、社会や経済などの安定した状態を望んでいる私たちに対して、警鐘を鳴らしていると言えるでしょう。
この諸行無常の法則から、仏教は、「あなたがこだわっていることも、いずれ変化してしまう」と説きます。だから、「心おだやかでいたければ、こだわりからはなるべく離れたほうがいい」という教えを展開しているのです。
この考え方は、非常に理に適っていると感じます。私自身、それまで抱えてきた数々のこだわりから離れられるようになったことで、徐々に心が自由になりました。
こだわりがある人の口ぐせには、「〜あるべき」「〜すべき」があります。私はこれを“ベキベキ星人”と呼んで、他山の石としています。
こだわりは、持てば持つほど心おだやかではいられません。なぜなら、自分がこだわっていることを屁とも思っていない人を見ると、「なぜこうすべきなのに、そうしないのだ」と心が乱れるからです。
加えて、自分がこだわっていることや物をなんとも思わない人は、世の中に掃いて捨てるほどいます。大勢の人があなたのこだわりに理解を示さず、同調もしないので、結果的に心乱れることが多くなるのです。
人生には“シンプルな目標”が一つあればいい
自分がいくらこだわっていても、それにこだわらない人にその理由を聞けば、その人なりの「これこれこういうわけだから、こだわっても仕方がないでしょ」という道理が通っています。
ここまで来ると、あることにこだわるのは、どうやら個人的な趣味嗜好のようなもので、頑なに守るべきものではないと思えるようになります。
この個人的な嗜好によるこだわりは、“マイ・ルール”と呼んでもいいかもしれません。
私は、「マイ・ルールを作るのが悪い」と申し上げたいのではありません。マイ・ルールと自分の主義ややり方の境界は、とても曖昧です。
しかし、マイ・ルールの数が多くなると、心はそれに縛られ、自由さを失ってしまうのです。
明治九年に、北海道に札幌農学校(後の北海道大学)が開校する際、校則についての会議がありました。教員からは多くの校則が提案されたそうです。
しかし、“Boys, be ambitious”で有名な初代教頭のクラーク博士は、たくさん並んだルールを見て、校則はたった一つ“Be gentlemen(紳士たれ)”でいいと主張しました。天晴れな考え方だと思います。
ルールは少ないにこしたことはありません。「こういう時はこうする」「こうなったらこうする」というルールがあると、それに縛られてしまうからです。
その点、大きな目標が一つあれば、それに向かうためのルールは少ないほうが、選択肢の数は増え、自由度が大幅にアップします。

