ウソって割に合わない
結局、僕が言いたいのはこうだ。
ウソは割に合わない。
僕はあまりウソをつかないし、ウソつきの人も嫌いだ。それは僕が「真実」の人というわけでなく、単に「面倒くさい」からだ。ウソを嫌う理由は、人によって違う。
裏切られたくない。正しいことが好ましい。倫理的に許せない。いろいろある。
「あれ? たしかあの人、こう言ってたと思うけど……。そうじゃないんだとしたら、僕だけじゃなくて、いろいろな人に迷惑がかかるんじゃないですか?」
この手の、最初に言っていたことが事実と違うことで状況がどんどんこんがらがってしまうという話は多々ある。そういうとき、僕は心の底からこう思うのだ。
「めちゃめちゃ面倒くさい話になってんじゃん!」
ようするに、ウソが混ざると多くの人が巻き込まれるのだ。
事実確認、やり直し、修正、フォロー。
人間関係のトラブルは、だいたいウソがからんでくるものなのである。
「過剰な断定語」は不安の裏返し
ウソと同じくらい厄介なのが、過剰な断定語だ。
「絶対」「マジで」「100%」といったセリフである。
それらは一見すると強い気持ちの表明だ。でも多くの場合はまやかしにすぎない。言葉は常にその内容が問われる。過剰な断定はその内容をすっ飛ばす行為だ。
人はおうおうにして自信がないとき断定に走る。
Bさん「ありがとう。でも……」
Aさん「いや、絶対! マジで! 100%! 本当なんです!」
Aさんは誠実であろうとしているのかもしれない。でも断定を重ねることで“真実味”ではなく“焦り”の響きを帯びる。圧力で押し切ろうとした結果、むしろ言葉が軽くなってしまうのである。
揺るがない真実はむしろ静寂を帯びるものだ。過剰な断定は、不信や不安の裏返しと取られても仕方ない。
断定語は検証不能だ。
「絶対」と言われても、測りようがない。「100%」と言われても、基準がない。
さらに断定語は反論を封じるためにも使われる。
「絶対」と言われれば、議論は止まる。「100%」と言われれば、余地は消える。
でもそれは正しさの証明にはならない。
正しさは、声の大きさとは無関係なのだ。あくまで根拠や具体性や再現性に基づくのである。
過剰な断定は要注意である。言う側も、受け取る側も。

