孫に王位を譲ったアマテラス
ちなみに『古事記』や『日本(書)紀』で描かれる天孫降臨神話では、アマテラスが我が子ではなく孫に王位を譲るという、世界の神話を見渡しても珍しい設定になっています。これは持統天皇がアマテラスのモデルだったからです。持統天皇も息子の草壁皇子が早世したため、孫の文武天皇に皇位を継承させています。
701年、大宝律令が完成した年に、持統上皇と文武天皇は、日本の天皇からのはじめての正式な使者として遣唐使を派遣しています。日本のねらいとしては、中国の属国扱いと言ってもいい冊封体制に組み込まれずに済むようなポジションの獲得でした。
武則天は日本の使者に対して、遠い海路をしょっちゅう来るのは大変だろうと配慮したのか、20年に一度程度の謁見でいいとしました。詳細はわかりませんが、遣唐使たちがうまく立ち回ったのでしょう。大唐世界帝国とはほどほどの距離感を保ったまま、独立を維持できるように話が付いたということです。
そしてそれまでは「倭」と呼ばれていましたが、「日本」という国号が正式に使用されるようになります。702年の遣唐使で、日本という国号をはじめて正式に名乗っています。これは中国から見て自国が東にあることを意味する言葉で、「日出処の天子」という607年の遣隋使の国書から約100年後のことでした。
持統天皇が「日本」をつくった
こうして業績を並べてみると、持統天皇がまさに「日本」をつくった、と言えるのではないでしょうか。
なお、「天皇」という称号は仁明天皇(在位833~850)以来、亡くなったあとに贈られる諡号としては使われなくなったと考えられています。もともと唐に対峙する中で武則天にあやかって使われるようになった称号ですから、その後、唐の脅威が去ると長く使われなくなります。
再び使われるようになったのは、江戸時代後期の光格天皇(在位1780~1817)以後のことです。ですからそのあいだは「天皇家」ではなく単に「王家」と呼ぶべきです(実際、少なくない中世史家がそうしています)。また、あとから考案された天皇号をそれ以前の大王に対して「継体天皇」といったかたちで使うのは歴史的に考えると正しくありません(「継体持統」は中国の言葉で「国を創り子孫が時代を越えていく」という意味。ただその事実を踏まえた上で、読者の理解を助けるためにあえて天皇号を用いて呼称しています)。



