「天皇」という称号を確立した

そして持統天皇は「天皇」という称号を確立します。その昔は天皇号の成立は推古朝からとされていましたが、現在では天武朝、つまり持統天皇の時代に確立されたと考えられています。武則天は道教の最高神「天皇上帝」から採って「皇帝・皇后」よりもさらに上位の存在として「天皇・天后」という称号を高宗と自分にあてはめています。中国では皇帝と皇后にはとんでもなく格に差がありましたが、武則天は「天皇と天后は対等だ」と言って「二聖政治」を実現しました。持統天皇はこれを参考に、日本の王家に適用したのでしょう。ただし自身は「天后」ではなく「皇后」を採用しています。日本にはすでに女性の大王もいたからでしょう。

天武天皇・持統檜天皇隈大内陵拝所(野口王墓古墳)、奈良県明日香村
天武天皇・持統檜天皇隈大内陵拝所(野口王墓古墳)、奈良県明日香村(画像=Saigen Jiro/CC-Zero/Wikimedia Commons

さらに持統天皇は、上皇制度も創設しました。藤原不比等に命じて大宝律令に「上皇は天皇と同等の権力を持つ」という条項を加えさせたのです。これによって彼女は譲位後も持統太上天皇(上皇)として、文武天皇(在位697~707)と同じ宮廷で暮らし、実質的な支配者として君臨し続けました。

新しい都や「見せ金」も作った

持統天皇は藤原京の建設にも着手します。この都は唐の長安城をマネしながら、武則天が理想とした古代中国の周の制度を記した『周礼』にのっとって建設されました。ただ、当時の日本と中国の国力の差は歴然としていました。日本の人口は500~600万人、中国は5000~6000万人で10倍の差があり、一人当たりの経済力も中国が2倍でした。つまり日本の国力は中国の20分の1です。にもかかわらず、長安が84平方キロメートルに対して藤原京は25平方キロメートルです。国力に見合わない規模の都市建設ですから、途中で頓挫します。

さらに唐では貨幣経済が成立していたため、日本も富本銭を製造します。でも大量の銅貨を作る技術も流通させる市場も未発達だったため、実際には十分に流通せず、中国や新羅の使節用の「見せ金」でした。

まだまだあります。内政的には自分たちが権力を握る正統性を示すため、そして外交上まともな国として認められるためには国家としての歴史書が必要でした。そこで『古事記』(712年完成)と『日本(書)紀』(720年完成)の編纂へんさんにも手をつけます。『古事記』は国内の豪族向けの宣伝書、『日本(書)紀』は中国に示すための公的な史書です。

中国の歴史書は「本紀」「志」「世家」「列伝」「表」の5項目で構成される紀伝体という形式でしたが、日本の国力ではすべてを編纂できませんでした。結果として「本紀」の部分、つまり天皇の記録だけが完成し、これが『日本(書)紀』となったのです。こういう理由から『日本書紀』は『日本紀』と呼ぶべきだと三浦佑之が『風土記の世界』(2016年、岩波新書)で唱えているのに倣い、本書では『日本(書)紀』と表記しています。