「天皇」という称号を確立した
そして持統天皇は「天皇」という称号を確立します。その昔は天皇号の成立は推古朝からとされていましたが、現在では天武朝、つまり持統天皇の時代に確立されたと考えられています。武則天は道教の最高神「天皇上帝」から採って「皇帝・皇后」よりもさらに上位の存在として「天皇・天后」という称号を高宗と自分にあてはめています。中国では皇帝と皇后にはとんでもなく格に差がありましたが、武則天は「天皇と天后は対等だ」と言って「二聖政治」を実現しました。持統天皇はこれを参考に、日本の王家に適用したのでしょう。ただし自身は「天后」ではなく「皇后」を採用しています。日本にはすでに女性の大王もいたからでしょう。
さらに持統天皇は、上皇制度も創設しました。藤原不比等に命じて大宝律令に「上皇は天皇と同等の権力を持つ」という条項を加えさせたのです。これによって彼女は譲位後も持統太上天皇(上皇)として、文武天皇(在位697~707)と同じ宮廷で暮らし、実質的な支配者として君臨し続けました。
新しい都や「見せ金」も作った
持統天皇は藤原京の建設にも着手します。この都は唐の長安城をマネしながら、武則天が理想とした古代中国の周の制度を記した『周礼』にのっとって建設されました。ただ、当時の日本と中国の国力の差は歴然としていました。日本の人口は500~600万人、中国は5000~6000万人で10倍の差があり、一人当たりの経済力も中国が2倍でした。つまり日本の国力は中国の20分の1です。にもかかわらず、長安が84平方キロメートルに対して藤原京は25平方キロメートルです。国力に見合わない規模の都市建設ですから、途中で頓挫します。
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