セツを英国籍に入れる案は選ばず
ハーンは神戸に移る前の夏、しばらく文通で親しんでいたメイソンの家族と、メイソンの東京の家や鎌倉の海水浴場などで、団欒の幾日かを過ごしている。このメイソンは、シカコという日本人妻を英国籍に入れ、二人の間の子供たちともども、日本で永住することを考えていた。しかしハーンは、これで済ませる事が出来なかった。セツは養父母と一体であり、さらに養祖父と実母の扶養を背負っていた。また、セツとハーンはともに、生存すら危うい金銭的窮地を踏んできている。
それにハーンの性格が絡んでくる。後年、東京帝国大学を解雇された時に、家族の将来についての不安に取りつかれた。その気遣いの聞き手となったミッチェル・マクドナルドが、ハーンを評して「苦労性の天才」と呼び、セツも賛同しているが、帰化に関しても、その「苦労性」――過度なまでの気遣い――を考え合わせて理解しなければならない。セツは後年「気の毒な程(家族を)心配してくれました。帰化の事でも好まない就職の事でも皆(そうでした)」と語っている。
この間の事情を最もよく知る者は、横浜に住んで当時の国際結婚の実情に通じ、たまたま『心』を献呈されている雨森信成であった。ハーンの没した翌年の『アトランティック・マンスリー Atlantic Monthly』(Vol. 96, 1905)に掲載された「人間ラフカディオ・ハーン Lafcadio Hearn, the Man」で、彼は次のように述べている。
帰化するには養子縁組しかない
家族のために懸命に働き、大いに苦しみもした。彼らを思ってだけ、彼は「地獄」にも住み、囚人懲罰用の「踏車」の苦役につき、もし独身でいたならば、決して耐え得なかった艱難をも忍んだのである。……私に次のように書いて来たことがある。「私は私一人のものではなく、私自身よりも幸福なほかの者たちのものでもあるわけで、そうでなかったら、私は僧になりたいと思っています」。
事実、彼が帰化して日本国民になったのは、ただただ、生存が彼にかかっている「より幸福なほかの者たち」のためであったのである。条約改正が発効する前、列強が治外法権を持っていた時期のことで、日本女性を妻に持つ外国人の遺言適応のない財産は、日本の遺族ではなく、本国の親族の手に渡ることになっていた。ハーンはこの事を知っていたがために、帰化することによって議論の余地なく、己がかくばかりに愛する家族に、遺贈されるように望んだのである。
当時の日本には、養子縁組による以外の帰化の法律がなかった。こうした状況下にあって、予想される困難を前もって除去する唯一の方途は、妻の父の家族の養子となることであった。それ故に彼はその通りにして、小泉八雲という日本名を名告ったのである。この問題に関して、以上の記述を立証するために、私宛の手紙から引用することには、支障があろう……しかし、家族の生活への気遣いが、彼の日本国籍取得の唯一の動機であったと言う立場に私はいる。当時この件で相談に乗る、少数の友人の一人であったからである。

