九州でも実行した一夜城作戦
九州平定の際も、秀吉はほぼ全国の大半を押さえた上での戦役だった。ただし小田原征伐ほど「勝ち確」ではない。薩摩から北上を続け、九州統一を目論む島津軍。対する風前の灯火の大友家の当主・大友義統は、秀吉に援軍を頼む。
1586(天正14)年、島津軍が九州北東部の大友領へ本格的に侵攻。豊後国、豊前国、筑前国になだれ込み、大友軍は防戦一方。毛利や長宗我部ら西国の援軍を得ても徐々に押されてゆく。そんな中、ようやく秀吉が重い腰を上げる。1587(天正15)年の元旦、九州への出陣を号令。諸大名がこぞって西へ向かい、2月10日には秀長、3月1日には大将・秀吉も出陣する。
秀吉軍が九州へ上陸した頃、両軍の最前線のひとつが現在の福岡県内陸部の筑豊エリアだった。一帯を支配していたのは、島津方についていた秋月種実。秀吉軍は、まず手始めとばかりに岩石城(図表5③福岡県添田町添田・赤村赤)へ。
麓からの比高は380m、巨岩を活用した見るからにゴツい山城を、秀吉軍の前田利長、蒲生氏郷らはわずか一日で攻め落とす(これも別の意味で「一夜城」といえる)。
この時、種実が籠っていたのは益富城(図表5④福岡県嘉麻市中益、大隈城とも呼ぶ)。岩石城から10数km西に位置する。驚いた種実は城を捨てることを決意。敵に奪われるのは必至なので、ぬかりなく破却してから撤退したのだが……。



