日露戦争の終わらせ方に怒った暴徒たち
もうひとつ、コミュニケーションにまつわる戦争の話をしておきましょう。こちらは神話ではなく、現実に起きた日露戦争の話です。
当時、明治政府の元老だった伊藤博文は、1904年にロシアとの戦争が始まったときから「終わらせ方」を考えていました。強国ロシアが相手では勝ち目が薄いのはわかっていたので、できるだけ早く有利な条件で停戦条約を結ぶ作戦を立てたのです。
そのために伊藤は、米国大統領のルーズベルトと親友だった金子堅太郎を派遣し、戦争終結の斡旋を依頼させました。
これが功を奏して、ロシアは劣勢だった1905年にルーズベルトの斡旋に応じ、日露両国はポーツマス条約を結んで講和したのです。これ自体は、先手を打った伊藤の外交センスが光った出来事でした。
しかしこの講和で日本はロシアから賠償金を取れなかったため、国民は納得しません。ポーツマス条約に反対する国民大会が東京の日比谷公園で開かれたときには、怒った暴徒たちが新聞社や内務大臣官邸を襲撃し、多くの交番や警察署などが焼き討ちされる事件が起きました。
伊藤の見事な手腕によってうまく講和できたのにこんなことになってしまったのは、政府や報道機関と国民のあいだの「コミュニケーション」に問題があったからです。
ロシアとの総力戦で戦費も兵力も底をついていた日本は、日本海海戦などで勝利はしていたものの、すでに継戦能力を失っていました。戦争が長引けば、ロシアの巻き返しによって負けた可能性が高いでしょう。
ところが国民は、そういう現実を知らされていませんでした。国民が見聞きしたのは、「日本軍がロシア軍を叩き潰した」といった威勢のよい報道ばかり。
だから「勝利のために若い兵隊たちの命がたくさん失われたのに、賠償金も取らないとは何事だ!」と義憤に駆られたのです。
「情報の共有化」の大切さ
また、米国のルーズベルト大統領が停戦のために尽力してくれたことも伝わっていませんでした。そのため米国に感謝するどころか、「賠償金も取れない形で講和させられたのはあいつらのせいだ」と米国を恨む人たちも出てきます。
これでルーズベルトの親日感情も失われ、やがて米国には日本脅威論が生まれました。それがなければ、のちの第二次世界大戦は違うものになっていたかもしれません。
ここから学ぶべきは「情報の共有化」の大切さです。「いわなくてもわかるだろう」とコミュニケーションで手を抜くのは、情報の共有化をサボることにほかなりません。
個人と個人の人間関係も、政府と国民という大きな関係も、コミュニケーションを怠らずに正しい情報を共有しないと、思わぬトラブルを招いてしまうのです。


