高市首相の「秩序ある共生社会」は詭弁
年々拡大する企業の利益率を支える「低賃金依存」という構造問題が、「外国人に支えてもらっている」という情緒的な問題や人権問題へとすり替えられる。生産性の向上や労働者への賃上げをしない企業の怠慢を、国民の罪悪感と受け入れ負担に転嫁するような政策は不健全と言わざるを得ない。そして本当にかわいそうなのは、政府の制度に乗って来日しただけなのに、国民に心のどこかで歓迎されない外国人だ。
一方で仮に、労働力不足の代替が難しかったとしても、それにより生じる不便な社会を甘受するか、という価値判断の主導権は、本来は主権者である国民にあるはずだ。しかし、その明確な選択の機会を政治は一切、提示せず、管理の厳格化という、似て非なるテーマを掲げて総選挙を経ただけだ。
結果、社会を維持するための希望条件の設定という、国民生活のあり方の根幹に関わる基準が、いつの間にか政治と日常的な距離が近い経済界の損得勘定に取って代わられている現実があるのだ。
移民政策の良し悪しはよく語られるが、本来、こうした解説をするまでもなく、理屈上も、欧州の混乱を見ても「国民にとっては」ダメージしかない政策なのは明白だと筆者は考えている。
しかし、政策を決定する政府や彼らに近い企業の関係者にとって、直接的な利害に結びつくのは、国民の民族構成ではなく、税収や売上などだ。日本人が減り続ける国であるより、いっそ移民の国に変わったほうがGDPの縮小が抑制され、売上の減少や税収減も穏やかになる、という“実利”がある。
こうした側面のある外国人の受け入れ政策に対し、「移民政策」ではなく「秩序ある共生社会」の推進だと説く高市首相――。果たして、この状況を国民はどう考えるのか。

