生きるとは「労働力を商品化すること」
あらゆるものが生活の文脈から切り離されて「商品化」され、お金を出せば入手できるようになった消費社会。僕たちは、商品化を自己実現のために欠かせないプロセスとして受け止め、当然のものだと考えてきました。
自己実現によって得られる「自己」は、商品価値の高いものである必要がありました。そもそも商品とは市場という他者のニーズによって成り立ちます。誰かが欲しいと思ってくれるからこそ、商品は存在できる。欲しがられない商品は棚から撤去され、人気のない店は閉店に追い込まれます。
消費者の立場から見れば、競争によって優れたものだけが残り、質の高い商品を手にできるという利点があるかもしれません。しかし商品の側に立ってみれば、常に「欲しがってもらえる」よう努力し続けなければならないのです。
商品に囲まれて育った僕たちは、この「商品の論理」を内面化してきました。つまり、誰かに必要とされなければ価値がないと思い込むようになってしまったのです。そのため、何かを始めたり発言したりする際、最初に考えるのは「他の誰かがどう思うか」ということになってしまいました。
確かに、生きるとは労働力を商品に変えお金を稼ぐことにほかならないのですが、他者ニーズに基づく生という原理を内面化し過ぎてしまうと、もし働けなくなったとき、「自分には商品価値がない」と感じ、社会から退場するしかないという思いに至ってしまうのです。市場原理だけで動く社会とは、常に他人の視線を気にし、嫌われれば終わりという、不安定な綱渡りのようなものなのです。
山村で出会った「ただ生きている」生物たち
僕たちは山村に移り住むことで、市場原理では測れない価値に気がつきました。市場原理が他者ニーズによって駆動されているのだとすれば、その正反対の世界がそこに広がっていたのです。他人がどう思おうと関係なく、ただ自己ニーズによって存在しているものに山村は満ちていました。
アブやカメムシ、サワガニやヤモリといった昆虫や爬虫類。アナグマやイタチ、タヌキやシカといった小動物。そして空には鷹やサギの姿もあります。足もとには杉や檜の木々が鬱蒼と茂り、大小さまざまな岩には苔がびっしりと生え、そこからさらに木々が伸びている。そこにあるのは、人間の都合やニーズとはまったく無関係に存在しているものばかりでした。
彼らは「生きているから、生きている」。その営みに特別な理由はなく、ただ食べ、排泄し、繁殖し、生を繰り返しているだけです。もしかすると自己ニーズとは、まさにこうしたものなのではないでしょうか。他人と比較して測れるものではなく、時には理性を超えてしまう力を持つもの。

