数値化されることで失われゆくもの

思えばこの傾向は大阪で始まったわけではなく、2000年代前半の小泉純一郎政権の時代に、市場原理を幅広い分野に適用する流れが一気に強まりました。郵政民営化をわかりやすい構図で打ち出した小泉首相は、メディアを巧みに利用しながら既得権益との戦いという物語を提示し、多くの国民の支持を得ました。

その延長線上で、規制緩和や民営化が推し進められ、公共サービスの領域にも市場の論理が持ち込まれていきました。2000年代後半の大阪で橋下徹氏が展開した政策も、この潮流に位置づけられます。

文化や教育といった本来は数値では測りきれない領域を、利用者数や収益性といった数値に還元して評価し、予算配分を決める。そのシンプルでわかりやすい基準は、多くの人に受け入れられ、メディアでも「改革」としてもてはやされました。

繰り返しますが、僕は市場原理そのものが悪だと言いたいわけではありません。しかし、何もかもを単一の原理に統一してしまうことには大きな危険があります。商品の論理としての市場原理では、中長期的な視点を持つことがどうしても難しくなってしまうからです。

本来、社会には数値化できないもの、目に見えないものを大切にする視点が不可欠です。その存在を感じ取る力こそ、人文知の役割だと僕は考えています。だからこそ、僕たちの運営する私設図書館には「人文系」という言葉を冠しているのです。

図書館の本
写真=iStock.com/Chinnapong
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「他者ニーズの蔓延」による生きづらさ

すでに繰り返し述べていますが、現代社会の生きづらさの背景には、商品化経済における他者ニーズの蔓延まんえんがあると考えています。その典型がSNSです。Facebook、YouTube、TikTokといったプラットフォームでは、投稿や動画に何万回もの再生や「いいね」がつくことがあります。しかし、それらはあくまで他者からの評価にすぎません。

さらに、アルゴリズムは刺激の強いものを優先的に拡散させる傾向があるため、暴力的な映像やショッキングな内容の動画は再生数を稼ぎやすいと指摘されています。しかし、それがそのもの自体の価値を示しているわけではありません。

もちろん、数値化された指標すべてに意味がないとは思いませんし、人気や支持の可視化には一定の役割があります。しかしそれだけを追いかけ続けると、次第に「再生数に取りかれておかしくなってる」YouTuberが「警察に捕まり始めている」という、とある漫才師のネタのような状態に陥ってしまう。それほどまでに、数値化された他者評価は人びとに強い力を及ぼしているのです。