「経験の蓄積」「ノウハウの伝授」がない構造
だが、二人は決定的な勘違いをしていた。自分たちの「会社」が、もはや中小企業ではなくなっていることに、気づいていなかったのだ。
近江長浜時代の規模なら、「社長と専務が全部決める」で回る。朝、秀吉と秀長が顔を合わせて、立ち話で打ち合わせすれば十分。現場もそれで動ける。
だが天下統一後、豊臣政権の規模はどうなったか。もう別次元の組織である。町工場と、トヨタ自動車くらい違う。しかも、豊臣政権の場合、もっとヤバい問題があった。「この人、ウチの社員なの?」というレベルの人間まで、組織に組み込んでいたのである。
典型例が徳川家康だ。家康は、小牧・長久手の戦いで秀吉と互角に戦った独立勢力である。その後、秀吉に臣従したとされるが、実態は極めて曖昧だ。形式的に忠誠を誓っているだけで、軍事もなにもかも保持したままである。
もちろん、天下統一と共に規模に応じて組織改編も考えただろうが、秀吉と秀長のマネジメント手法は、長浜時代と根本的に何も変わっていなかったといってよい。
なぜなら、一代で成り上がったために、経験の蓄積もノウハウの伝授もないからだ。これは、秀吉個人の能力の問題ではない。構造的な問題である。
豊臣政権になかった「組織知」
信長の織田家には、父・信秀以来の家臣団がいた。彼らは「織田家の経営ノウハウ」を持っていた。尾張一国を治める方法、家臣をまとめる方法、領地経営の作法……それらは代々引き継がれてきた組織知だ。家康の徳川家はもっと強固だ。三河以来の譜代には、「松平家(徳川家)のやり方」が骨の髄まで染み込んでいる。
だが、秀吉にはそれがない。全部、自分たちで試行錯誤しながら作るしかなかった。
長浜12万石を治めるノウハウは、試行錯誤で身につけた。播磨も但馬も、何とかやった。だが、それは「中小企業の経営ノウハウ」である。それを、いきなり「全国2000万石の巨大企業グループ」に適用しようとしても、うまくいくわけがない。
しかも、そのことに気づくための「参照モデル」すらない。朝廷から官位をもらったのも、一種の迷走とみることもできる。ほら、ベンチャー企業の経営者が大学で非常勤講師をやったり、大学研究室で「共同研究をやってます」とうたって箔を付けようとするのと同じだ。
織田家や徳川家なら、先代の失敗例や成功例から学べる。だが秀吉には比較対象がないのだ。「こんなもんだろう」という感覚で、ずっと来てしまった。


