秀長の家臣団には「直臣」と「秀吉の直臣」がいた
歴史学者・黒田基樹『羽柴秀長とその家臣たち』(KADOKAWA、2025年)では、秀長家臣団の構成過程を検討している。そもそも秀長は、秀吉と共に信長に仕え馬廻に組み込まれている。その後1575年頃から秀吉の与力に組み込まれ、秀吉の領地である近江長浜で所領を与えられるようになったと考えられている。
つまり秀長は、秀吉の部下として独立した軍事指揮権を与えられたわけだが、問題はここからだ。秀長が率いる軍勢を構成する家臣たちは、どこから来たのか。
まず、秀長はここから必死に採用を始めている。代表格は織田信澄のところから引き抜いた、藤堂高虎である。ほかにも、所領を得た秀長は近江近辺で、様々な家臣を得ている。
大きな変化は、本能寺の変後である。但馬一国と丹波福知山を領国とした秀長は家臣団も増えたが、秀吉の直臣から転じた者も多く見られるようになる。
黒田によれば、秀長の家臣団には秀長の直臣と、秀吉の直臣の両方が存在していたとされる。黒田は、事例を次のように記している。
“二重の指揮系統”は混乱を招く
これは普通にやりにくい。つまり、並んだ家臣の中の雇い主がはっきりわかれている。
・秀長の直臣:秀長が直接採用し、秀長から所領をもらった家臣
・秀吉の直臣:形式上は秀長配下だが、所領は秀吉から直接与えられた家臣
伊藤祐時も加藤光泰も、大和という「秀長の領国」で所領を持っているのに、その所領を与えたのは秀長ではなく秀吉なのである。
現代企業で例えるなら、こうだ。支社長は秀長。だが、その支社内に「本社の秀吉社長から直接辞令をもらい、本社人事部付きの社員」が混在している。
支社からみれば、これはやりづらい。秀長が彼らに命令を出しても、「いや、それは本社の秀吉社長の方針と違うんですけど」といわれたら、どうしようもない。なぜなら……
・形式上は秀長の部下
・だが給料(所領)は秀吉が払っている
・人事権も秀吉が握っている
・おそらく忠誠は秀吉に向いている
だが、秀吉も秀長も、これで回ると本気で思っていたはずだ。だって「兄弟でサクセスしようぜ!」で、ここまで来たんだから。
秀吉:「小一郎、お前に大和任せるわ。あと伊藤と加藤も置いとくから」
秀長:「おう、任せとけ」

