監督室のドアは常に開けていた

――2軍降格など、配置転換を言い渡す時は神経を使われたのではないでしょうか?

【髙津】18歳の選手に「ちゃんと調整してこい」と言っても響きません。ベテランに「もう1回しっかり調整しておいで」と言うのとは意味合いが違います。「もう1回、2軍で頑張ってこい」と言うのですが、打たれてすぐ監督室に呼んで伝えることもあります。カッカしている時の言葉選びは難しいものです。

ですから、最後に必ず「何かあるか?」と聞くようにしています。大体の選手は「ありません。頑張ってきます」と答えてくれますが、稀に「ちょっと1ついいですか?」と言う選手がいます。きっと思い詰めて、ずっと聞きたいと思っていたことがここで出たんでしょう。

そんな時はもちろん丁寧に話をしますが、だからこそ普段から、僕に話し掛けて欲しいと思っています。監督室のドアは常に開けていました。とはいえ、選手が入りにくいことも承知しています。

だから2月1日のキャンプインで必ず言うのは、たとえば「お腹が痛いです」と言いづらかったらまず先輩やコーチに言いなさいと。選手の体調不良を知った先輩やコーチは必ず僕に言ってきます。だから、自分の中だけに溜めるのだけやめてくれと。

人生を変えた野村監督からのひと言

――選手が不満を溜め込まず、円滑な意思疎通ができるチームを意識されていたことが分かりました。当時の野村さんはどうでしたか? 野村さんとのかかわりで印象に残っていることがあれば教えてください。

【髙津】それが、あまりなくて……。実は野球の話はほとんどしませんでした。

僕は2回ぐらいしか食事をご一緒したことがありません。野村監督自身、選手と食事に行くことはほぼなかったのではないでしょうか。

日常会話で、僕が「いい時計してますね」と言うと、「そうだろっ」と外して見せてくれたり、「いいネクタイですね」と言うと、「ベルサーチや」と答える。そんな人でした。

僕は野球以外のことを普通に話せるタイプだったので、野村監督とはそんな会話が多かったですね。野球で怒られたことも褒められたこともない僕でしたが、たった一度だけ野村監督から「要求」をされたことがあります。

あれは僕が2年目のシーズンを日本シリーズ敗退で終え、秋季キャンプに臨んでいたときのことです。潮崎哲也(西武ライオンズ)のシンカーを打てなくて負けたことが、野村監督は余程悔しかったのでしょう。たまたま同じような投げ方をしていた僕を捕まえて、「おまえもシンカーを覚えろ!」と言われました。

野球場
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それから、もう付きっきりでいろいろ、「もっとこうだ、ああだ」というふうにガーッと教わりました。

結果的に、秋季キャンプで習得した緩急自在のシンカーは「投手・髙津臣吾」の代名詞になりました。野村監督の猛特訓がなかったら抑え投手にもなっていませんし、おそらくその後のキャリアもなかったでしょう。きっとここにも座っていません。あの時の「シンカーを覚えろ!」という言葉がすべてでした。