バブル景気に取り残された

七福タオル創業から3年後の1962年に生まれた河北社長は、今治南高校を卒業後、東海大学へ進学するため上京。1985年4月、大学を卒業してすぐさま今治へ戻り、家業に入る。そのころの今治のタオル産業は活況を呈していて、メーカーだけで約440社あった。七福タオルは従業員7人ほどの小さな会社だったが、河北社長が入社してしばらくは、事業は安定していた。

当時の問屋経由のビジネスでは、タオル1枚あたりの卸値は数十円〜数百円。そこから製造コストを差し引くと、利益はわずかだった。しかも、問屋の言い値で買い叩かれるため、価格決定権はメーカー側にはなかった。

それでも、時はバブル景気真っ只中、今治の多くのタオルメーカーは手広い事業や大量生産などによって儲けていたが、実は七福タオルのビジネスは芳しくなかった。河北社長の父は堅実な人で、取引社数を広げることはなく、1、2社を相手に細々と商いをしていた。すると次第に赤字を出すようになっていたという。

「苦しかったですね。赤字で銀行には責められるし。1987、88年あたりはしんどかった」と河北社長は回想する。

落ち込んだビジネスマンのクローズアップ
写真=iStock.com/masamasa3
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七福タオルは否応なくビジネスの転換を迫られていた。とはいえ、良いアイデアが浮かぶわけではない。そうした中での偶然の巡り合わせが、七福タオルの苦境を救うことになる。

転機は200枚の「似顔絵入りタオル」

河北社長は東海大学時代、落語研究部に所属していて、3つ上の先輩に落語家・春風亭昇太さんがいた。1986年、昇太さんが「二ツ目」に昇進すると、お客さんや関係者などへの手土産用にタオルを作りたいという相談を受けた。そこで似顔絵入りのタオルを200枚ほど製造。昇太さんは大変喜び、あちこちに配ったところ、その1人に創刊したばかりのビジネストレンド雑誌『DIME』のライターがいたそうだ。

「ライターさんが『これ、昇太さんが作ったの?』と聞いて、『実はね、今治のタオルメーカーの後輩がお祝いに作ってくれたんだ』と答えたそうです。すると、オリジナルタオルがオーダーできるという記事を書いてくれました」

記事の末尾に七福タオルの電話番号を載せると、1週間で200件ぐらいの問い合わせが来るほどの大反響だった。これをきっかけに、個人客でもオリジナルタオルを小ロット生産対応してくれるメーカーというイメージが徐々に広がっていった。

なお、このエピソードにはこぼれ話がある。

「改めてその記事を読んでみると、『タオルの本場・愛媛で、あなたのデザインのタオルが作れます』とある。今治とは書いてないんですよね。多分、今治ではわからないと思ったのでしょうね」と河北社長は笑いながら明かす。