だれにでも好かれる人とは、どんな人か。90歳になっても現役で活躍する作家・阿刀田高さんは「ユーモアを持つ人は好まれる。しかし、ユーモアというものはひどく複雑で微妙な心理に由来するもので、年齢を重ねてわかる代物だ」という――。

※本稿は、阿刀田高『90歳、男のひとり暮らし』(新潮社)の一部を抜粋・再編集したものです。

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ユーモアは笑いに直結するものではない

だれかの人柄が紹介されるとき「ユーモアのある方です」と言われれば、これはほとんどの場合、褒められている。ユーモアは褒め言葉なのだ。なぜだろう?

──笑いを誘うからだろ──

確かに笑いは喜びを生む。“笑う門には福来たる”ということわざもあるし、笑うと健康にもよいらしい。

しかしユーモアは笑いに直結するものではない。笑いを誘うとしても微笑くらい。笑いだけを求めるなら落語、漫才、笑話、お笑いタレントの雑技など、ユーモアとは少し異なるものがたくさんある。

ユーモアは必ずしも笑いをともなわないし、どこか知的で、楽しさの中にも苦さ、鋭さ、怖さを秘めていることもある。

広辞苑では“上品な洒落やおかしみ”と解し、日本国語大辞典では “人を傷つけない上品なおかしみやしゃれ。知的なウイット、意志的な風刺に対して感情的なもの。近世のイギリス文学の重要な特質の一つであり、以後文学や美学の一つのカテゴリーとされた”と入念に説いているが、少し足りないような気がしないでもない。

巨人が優勝できなかったのは誰のせいか

そこで例えば、どんなときにユーモアを感ずるか、あえて微量のユーモアを並べてみれば、

「失恋しちゃった」
「おいしいショートケーキがあるわ」

失恋を慰めるのではなく、心の悲しみを味覚の楽しさでさりげなく誘い補う。そんなところに私はユーモアを感じてしまう。

あるいは、

「麻雀って健康な遊びだな」
「そうかな。徹夜でやったりして」
「そう。健康でなきゃやれない」

普通の考え方から外れて、そこにユーモアが漂う。もう一つ、

「ジャイアンツ、優勝できんかったなあ」
「ああ」
「どこが悪いんだ」
「俺が悪かった」

なにも関係がない一ファンたる俺が反省しているところが(熱狂的なファンにはこの心理があったりするのだ)おかしい。