事業の収益性に対する危機感が、広島製作所の急速な分社化を加速化させた。分社化させることで、事業の責任が明確になり、結果として生産性が高まった。

「広島製作所ほどドラスティックに製品や事業所自体の構造を変えてきたところは、ないんじゃないでしょうか」(鯨井)

鯨井自身が、歩んだ道も平坦ではなかった。宮永と同様、鯨井も製鉄機械に長く関わってきたが、時代の流れと共に、その営業先も、国内の製鉄メーカーから、韓国「ポスコ」へと変わり、中国へと軸足を移してきた。製鉄機械は、製鉄の伸びに比例して、97年のアジア通貨危機までは隆盛を誇った分野でもあった。

鯨井は、90年代初めから、製鉄機械と関係のない事業も任されている。造船事業から撤退し、閑散とした広島製作所内の工場の転用先として、米国の航空機メーカー、ボーイング「777」機の組み立て、生産の一部を請け負ったのだ。

鯨井は、造船用の工場を航空機用に改修することで、「777」の生産の一部を開始させた。鯨井だけでなく、かつて航空機の生産に関わった経験を持つ技術者は、広島に1人も存在しない。そんな状況でのスタートだった。

「キャリアチェンジですかねぇ」

鯨井は、穏やかに笑いながら答える。

鯨井は、“航空機製作”を1から学びながら、同時に技術者に職種転換を促し、育てつつ導いていかねばならない。鯨井は、航空機の生産現場を学ぶために、航空機生産の聖地「名古屋航空宇宙システム製作所」(以下、メイコウ)に、広島から何度も足を運んで教えを乞うた。広島製作所とメイコウの間の“技術のギャップ”“言葉のギャップ”は予想以上に大きく、鯨井には、非常に“高い壁”として感じられた。同時に、鯨井は、航空機という「専門外の分野」に従事する広島の技術者のやるせなさ、将来への不安を、感じない日はなかった。ある日、鯨井は、技術者たちに向かってこういった。

「メイコウはメイコウ。われわれ(広島製作所)は、航空機の西の拠点として自立、自主独立していこう。ボーイング『777』から次の機種へ、そのまた次の機種へとつながるように、作業の質を高めていこう」

鯨井はややもすれば、肩を落としがちの社員、技術者をこう鼓舞しながら、将来のビジョンを提示し続けた。

その後も、鯨井は、何度も名古屋に足を運び、メイコウの若い技術者に頭を下げながら、航空機の技術を学んでいった。鯨井が、この苦しみを乗り越えることができたのも、「このままでは事業が消滅してしまう、仕事がなくなってしまう」という強烈な危機意識からだった。

宮永が、背水の陣で広島製作所から製鉄機械部分を切り離し、日立と共に創設した三菱日立。宮永が三菱日立で味わった同じような危機意識を、鯨井も「777」で経験していた。

(文中敬称略)

(的野弘路=撮影)
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