会社の規模だけを見れば、完全に負けているが、宮永の分析は違っていた。圧延機の領域に注目すれば、SMSデマーグが押さえる市場は約2000億円。それに対して、日本企業の機械の性能、技術の高さを勘案すれば三菱重工業、日立製作所で、1000億円の市場は、取れる見込みがあると。製鉄機械の分野では、「冷間圧延設備」が得意な日立製作所に対し、「熱間圧延設備」が得意な三菱重工業と、“領域は重ならない”と捉えた。
「何としても、生き残らねばならない」
宮永の脳裏には、国内メーカーの日立との消耗戦を続けた結果、世界市場で出遅れ、圧延機の事業が消滅するのではないかという危機感が日々募っていた。
宮永が機械事業本部重機械部長に就任する頃、取引先の銀行から連絡が入った。
「日立さんと一緒にはなれませんか」
企業文化も違う。プライドを持ち、競争を繰り広げる両社が一緒になれるのか。
「とにかく、やらせてみてください」
当時、三菱重工業の「合併会社検討委員会」のメンバーだった宮永には、このままでは生き残れないという危機感があった。最後は、宮永の声が、日立との合併に反対する声を押し切った。
2000年10月、「MHI日立製鉄機械」が、東京・田町にあるビルの1室で産声を上げた。社員は両社から集められた33名で、社長は宮永が務めることになった。2年後、社名を「三菱日立製鉄機械」(以下、三菱日立)と変更したのを機に、宮永は正式に三菱重工業を退社し、三菱日立の社長に就任した。
「退路を断つことによって、日立さんも、より一層頑張ってくれるのではないかという思いがありました」
宮永は、当時の状況を淡々と振り返る。
宮永が決断した背景には、合併を推進した責任を取る意味もあったが、大好きな製鉄機械であれば“殉じて”もいいという純粋な思いが強かった。「圧延機」を“超高速の判断能力を持つ人工知能”と評するほど惚れ込んでいたからである。