会社に蓄積され続けた「経験、知見」を使え
「三菱は国家なり」
この言葉は、三菱重工の社内で“ナガセン”と呼ばれる三菱重工の長崎造船所を訪ねてみてもよくわかる。造船所を取り囲むように明治時代からの色あせたレンガ壁、長崎湾を睥睨するように立ち並ぶ巨大なクレーン群。修繕用の船舶ドックには、海上自衛隊が誇るイージス艦。
かつて「造船大国・日本」と形容された時代も、今となっては、郷愁を帯びる。造船業が分水嶺を迎えたのは、73年のオイルショックで、同年に入社したのが原壽船舶・海洋事業本部長・常務執行役員である。
過去50年間で、5回の大きな“谷”を日本の製造業は経験してきた。その度ごとに「為替が戻れば、マーケットが戻れば」と造船業界は度重なる不況を我慢して、乗り越えてきた経緯がある。しかし、今、日本の造船業界が置かれている状況は、「過去のそれとは全く違う状況なのです」と、原は言う。
約1億2000万トンの供給能力に対して、市場からの要求は半分にも満たない。原が決定的に過去と違うと言う点が、「中国の台頭ですね。この“谷”が安易に上がるとは言えない状況です」。
「歯を食いしばって耐えてばかりですね」
こう原に問いかけると、原は、「必死に耐えるしかない」と、わずかに笑った。
長崎造船所のある部署には、明治時代から続く歴代課長の顔写真が壁一面に張られている。このような“誇り“と“矜持”が、長崎造船所を支えてきた。“長崎造船所所長にあらずんば、重工の社長にあらず”。かつて三菱重工の社長になるためには、長崎造船所の所長を経験することが暗黙の了解だった。しかし、大宮英明社長(現会長)は、長崎のトップを経験していない。タコツボ化した“聖域”造船所を、いかに普通の組織に変えることができるか。これも大宮に与えられた使命だった。