宮永は、三菱日立を世界一のメーカーに成長させることを真剣に考えていた。54歳の誕生日を目前にした決断だった。

「もう三菱重工業には戻れない」

宮永だけでなく、周囲も口に出さないものの、そう思っていた。

4年後、還暦に近づいた宮永に転機が訪れる。「奇跡のカムバック」と呼ぶ三菱重工業本社への“復帰辞令”だった。

宮永が、三菱日立の社長に就任してから、同社の雰囲気は大きく変わった。宮永が、陣頭指揮を執ることで、三菱日立の技術者たちは、合併後目の色を変えて働くようになり、技術者1人当たりの生産高、売り上げは、合併前の4~5倍に増え、製造ミスも減った。三菱日立は、「高収益企業」へと生まれ変わった。

「危機感と具体的な仕組みづくりと“資本の入れかえ”で企業は蘇る」。宮永は、子会社時代に、得難い体験をしたのだ。

このままでは事業が消滅してしまう

三菱重工業 常務執行役員航空宇宙事業本部長 
鯨井洋一

「意外感が強くて、青天の霹靂でした」

78年入社組で、三菱重工業におけるキャリアを宮永と同じ広島製作所から、積み上げてきたのが、鯨井洋一常務執行役員航空宇宙事業本部長である。鯨井が、“青天の霹靂”と形容したのは、昨年7月に、大宮から「航空宇宙事業本部に行ってほしい」といわれたからだ。鯨井の前職は、機械・鉄構事業本部長で、長い間、“重たい機械”畑を歩んできたため、今回の異動は、全く異なるものだった。

鯨井、そして宮永が長く籍をおいた広島製作所だが、その歴史は大宮改革の“ロールモデル”といえた。

広島造船所として操業を開始した広島製作所だが、80年には本業の造船事業から撤退し、86年には、海洋部門を広島海洋機器工場へ分離させ、名称を広島製作所に変えている。00年には製鉄機械を分離させて、先述の日立と合弁会社(三菱日立)を設立させた。06年、橋梁部門を分離させて、「三菱重工鉄構エンジニアリング」を設立。10年、コンプレッサー・タービン部門が分離し、「三菱重工コンプレッサ」が誕生している。