100年を超える三菱重工業には、時代時代で各製作所が覇を競ってきた歴史がある。戦前、戦艦「武蔵」を世に送り出した長崎造船所。戦闘機「零戦」を生み出した旧名古屋航空機製作所(現・名古屋航空宇宙システム製作所)。今や三菱重工業の屋台骨を支える存在となった原動機の高砂製作所……。われこそは三菱重工業の“保守本流”という、強烈な自意識を持っての、事業所間同士の競争だった。歴代経営者もこれら有力製作所、造船所から輩出される傾向にあった。しかしながら、宮永は、本流ではない、広島製作所(旧・広島造船所)初の社長である。
入社後、宮永が配属されたのは、広島製作所の勤労部だった。この地で宮永は、経営の本質(事業がどのようにして衰退し、どのように再生するのか)を体験する。
「工場にいることが、大好きだったんです。本当に楽しいんですよ」
宮永は、屈託ない少年のような笑顔で話す。理科系・数学系の発想や考え方が好きな宮永にとって、配属された広島製作所の観音工場は、「機械のデパート」のようなワクワクする場所だった。セメント機械、コンプレッサー、製鉄機械、駆動タービン、ボイラー、化学機械……。宮永は工場の工程管理から営業まで、広島の地で17年間過ごした。この間の2年間、宮永は、米国のシカゴ大学ビジネススクールへの留学も経験している。シカゴの地で、宮永を待っていたのは、世界屈指の理論経済学や統計学の授業だった。コンピュータサイエンス、応用数学などの授業も選択することができた。宮永は世界最高峰の学問を、スポンジが水を吸うように吸収していった。
「様々な事象を抽象化し、共通性の有無を探し出しながら、他の事象との共通性を見いだしていく」
こうしたことから、導き出される類推、類似、近似させる理論と、広島での現場体験が、折り重なるように、宮永に、経営に関する数々のヒントを与えた。
お客のニーズに対して、自分たちは何ができるか。何が売れるか。何と何とをつなげれば、お客のニーズを満足させることが可能か……、宮永は考え続けた。