遠回りの美学
こうした萩本欽一の人生に一貫しているのは、端的に言うなら「遠回りの美学」だろう。萩本自身、こう述べる。「ぼくが番組を作ってた時にやっていたことは、“遠くする”ことだけなんです」(前掲『人生後半戦、これでいいの』96頁)。
あるとき、番組に小学校に上がる前くらいの小さい子どもが欲しいと萩本は考えた。それならば、児童劇団に連絡を取り、オーディションを開けば手っ取り早い。スタッフもそう提案した。だが萩本欽一はそうしなかった。
スタッフに、とにかく自分の目で探すよう頼んだのである。スタッフは手分けして幼稚園の前などに立ち、見つけることにした。そしてようやく2カ月後、ディレクターが「我々が探した子どもに会ってください」と言ってきた。この子でいいか、お伺いを立てたわけである。
すると萩本は、こう言った。「ぼくが見て、この子、よくないねって言ったら、二カ月かかったことも、全部が無駄になるんだよ。ぼくはそういう無駄はしたくない。その子に決まるまでの物語を聞いただけで、当たるのはもうわかってる。だから本番に連れてきなさい」。
果たしてその番組は、視聴率20%をとった(同書、96〜97頁)。
なぜわざわざ遠回りをするのか
なぜわざわざ面倒なやりかたをして“遠くする”のか。それは、この言葉にもあるように「物語を生む」ためである。萩本は、あえて遠回りすることだけを考えていた。だから、スタッフが見つけてきた子どもを面談さえしなかった。
結局、近年私たちの社会から急速に失われつつあるのは、こうした遠回りを厭わないこころなのかもしれない。遠回りすることの対極にあるのが効率主義だ。徹底して無駄を省くことで迅速に目標に到達する。そうした効率主義が、テクノロジーの発展もあってますます加速している。
少し前に話題になった「タイパ(タイムパフォーマンス)」などは、その最たるものだろう。だがバラエティ番組を1.5倍速で見ても、間や雰囲気を感じ取ることができず、本当の意味でそこにある面白さは感じ取れないはずだ。
坂上二郎さんであれ、素人であれ、同じシチュエーションで繰り返しやらせる欽ちゃんの笑いは、思えば遠回りの笑いだった。もちろん昭和時代にも効率主義の流れはあった。だが徹底した遠回りによる笑いで長年にわたり支持されたのが欽ちゃんだった。
断っておくが、「遠回りの美学」は決して古臭いものではない。むしろ古い常識を壊すことだ。そのことは、ここまでみてきた萩本の人生、そこにあった数々のエピソードを思い出せばわかってもらえるだろう。
無謀と言われる困難な道をあえて選ぶことで新しい道を切り拓くのが、一貫した萩本欽一の流儀である。つまり、遠回りこそが革新的なものを生み出す秘訣であり、そこに運もついてくる。
もし萩本欽一のことを「不思議なひと」だと思ってしまうとすれば、きっとその分だけ私たちの思考回路は「昭和」から遠ざかってしまっているのである。