※本稿は、太田省一『萩本欽一 昭和をつくった男』(ちくま新書)の一部を再編集したものです。
萩本欽一が「テレビには芸は要らない」と感じたワケ
『オールスター家族対抗歌合戦』のある回でのこと。山形から来たおじいさんが出演した。地元では町内会の会長。だからマイクを持つなり、身についた習慣からか「本日は家族をお招きいただきましてありがとうございます」と挨拶を始めた。
そして続けて出てきた言葉が、「こうしてNHKに出られて、わたくし、生涯の幸せです」。テレビはNHKしかないと思っていたのである。
この番組はフジテレビ。周囲は慌てたもののおじいさんの挨拶は止まらず、NHKを連呼し続けた(『笑うふたり』122~123頁)。
このとき、その場にいた萩本欽一は、自分が同じセリフを言っても誰も笑わないだろうと思った。
「僕よりもおじいちゃんのほうがテレビのなかの笑いという意味では上」「極端な話、テレビには芸は要らない。芸はテレビで披露してはいけない」。
テレビでは「素人の瞬発力的な笑いにはかなわない」(同書、123~124頁)。そう悟ったのである。
素人を笑いの主役にした結果
この発見は、自らバラエティ番組を企画するうえで大切なヒントになった。素人を笑いの主役にする。その第1弾『欽ちゃんのドンとやってみよう!』が高視聴率を獲得。続けて『欽ちゃんのどこまでやるの!』もヒットし、萩本欽一は国民的人気者への道を歩み始める(このあたりは後で詳しく述べる)。
そこに目をつけたのが、あの日本テレビの井原高忠である。当時井原は制作局長の要職にあり、日本初の大型チャリティ生番組の企画を進めていた。そう、いまも続く『24時間テレビ「愛は地球を救う」』である。
初回は1978年夏のことだった。井原は全国にある日本テレビの系列局と調整をすませ、次にキャスティングに取りかかった。そしていの一番に声をかけたのが萩本欽一だった。
「これをやれるのは萩本欽一しかない」と井原は考えていた。「あれぐらい日本中にいい人だと思われてる人もいない。しかも子どもからお年寄りにいたるまで、もれなく欽ちゃんのファンですからね。とにかくあの人しかいない」(井原高忠『元祖テレビ屋大奮戦!』229頁)。