日米安保闘争とソビエト連邦の話

朝の演説が終わると、喫茶店で一緒にトーストを食べて、夕方からまた演説。日中は、他にすることもないので、石井さんからいろいろな話を聞きました。

石井さんがよく語っていたのは、日本社会党書記長だった江田三郎のこと。そして自分が留学していたソビエト連邦の話です。

一九六〇年の日米安保闘争。国会に突入しようとするデモ隊の中に、中央大学のリーダーだった石井さんと東大のリーダーの江田五月がいて、警官とデモ隊が揉み合う騒乱状態がピークに達しようとしたとき、白髪の国会議員が飛びこんできました。他の議員はみな、安全な場所に逃げたというのに、その議員は「学生を殴るのなら、俺を殴れ」とばかりに警官の前に立ちはだかった。その人が、同志の江田五月の父親で、当時社会党書記長だった江田三郎でした。

1963年12月13日、東京で撮影された日本社会党の江田三郎衆議院議員(写真=朝日新聞/PD-Japan-organization/Wikimedia Commons

年老いた国会議員が、体を張って学生を守ろうとしている。たったひとりで民衆の側に立っている。こんな政治家が日本にもいたのか! 感動した石井さんは政治家を志し、同志である江田五月を介して、江田三郎の秘書になります。

その江田三郎からのちに、「ソ連に行って政治を学んでこい」と言われて、石井さんはソ連に六年間留学することになります。一九六〇年代のソ連は、民衆のための社会主義が行なわれている「理想の国」と喧伝されていました。

「日本は官僚社会主義国家」と喝破した

ところが実際に行ってみると、聞いていた話とまったく違う。

実際のソ連は官僚が支配している独裁国家だったのです。秘密主義で支配層が利益を独占し、国民は事実を知らされずに、貧しい生活を強いられている。

石井さんは本心を隠しながら、逆に「ソ連の政治体制を調べてやろう」という気持ちもあって、ソ連の社会主義を称賛するような博士論文を書いた。でも自分の中では「それは違う」という思いが強まったと言っていました。「夢のソ連」は作り話だったという形で、石井さんは一回、夢破れているわけです。

そして帰国してまた愕然としたことがあります。

それは、「日本もソ連と同じように官僚が支配する国ではないのか?」ということでした。六年間見てきたソ連と重なり合うように、日本の社会も同じ構造をしていることに、石井さんは気づいたのです。日本も民主主義を標榜してはいるが、実際は官僚主導の国家で、一部の支配層のみが利益を得て、大多数の国民は苦しめられている。日本は実際には「官僚社会主義国家」ではないのかと。