島内の居住区には排水のためのあらゆる工夫がされていた

建物自体で波浪を遮る計画で、西側の外海に面して造られたのが防潮棟群。護岸に沿って壁のように並んだ建物は、防波壁の役割も担っていた。炭鉱施設を波の穏やかな島の東側に配置せざるをえなかった立地上、生活関連施設は、建物を中央の山を挟んだ西側に置くしかなかった、という事情もあった。

居住空間への被害の回避を目的として、一部の建物は室内ベランダや窓が小さくなっている。これは防潮棟の特徴だった。護岸に接近した位置に高層建築を造るのは一般的に珍しいといわれ、軍艦島ならではの風景でもあるのだ。

ただし護岸と防潮棟をもってしても、海水の流入を完全に防ぎきれるわけではなかった。そこで海水対策として取り入れられた工夫のひとつが、防潮階である。建物の一階をあえて海水の逃げ場とする造りで、1918(大正7)年建築の一部の建物にこの仕組みが採用されている。

防潮階の仕組みを使わず、一階部分の床下を地上から1~2m離した高床式にすることで、海水を避ける建物もある。このほかにも、ロの字型構造で居室の入り口などをすべて内側に設置して海水を防いだり、建物内に防潮扉を設置したり、護岸に対して建物の向きを直角に建てることで波の影響を最小限に抑えたりと、ありとあらゆる工夫が各建物の随所に盛り込まれている。

提供=軍艦島デジタルミュージアム
1954年(昭和29)完成した国内初のドルフィン桟橋

端島は、波浪対策として周囲を護岸で取り囲んでいたため、排水設備がなければ浸入した海水が溜まってしまう一方だ。護岸壁の各所には四角い穴が開けられ、島内の地面を流れる海水を吐き出す役割を担っていた。東側の船着場と西側の居住区域を地下で結ぶ「人道トンネル」と呼ばれる地下道も、排水機能を発揮していた。

石炭が発見されたのは江戸時代、当初は小規模な露天掘りのみ

現在の佐賀県と長崎県の一部の地域を治めていた佐賀藩が、江戸時代前期の1647(正保4)年に作成した『正保肥前国絵図』。この絵図に、端島は「はしの嶋」との名称で登場している。また、野母崎半島にあった天領(江戸幕府の直轄領)の高浜村が江戸中期の1773(安永2)年に作成した資料(『佐嘉領より到来之細書答覚』『安永二年境界取捷書』『長崎代官記録集』)では、「初嶋」との記述とともに、「佐賀領では『端嶋』という」とも記されている。

佐賀藩と高浜村の両者は、それぞれがこの島を自分の領域と主張し合い、所有権を巡り争っていた。安永年間(1772〜81年)に、双方の合意の上で島は高浜村所属と決定される。だが、権利を得た高浜村は本格的な島の開発には動かなかった。再び確執を深める事態は避けようと、あえて手を出さなかったようだ。こうした背景もあって、島の開発は明治時代に入るまで本格化されなかった。

端島の北にある高島では、1695(元禄8)年にはすでに石炭が見つかっており、1817(文化14)年には佐賀藩主導で採掘が始まった。幕末には、長崎に寄港する外国籍の蒸気船の燃料として石炭需要が高まる。スコットランド人貿易商、トーマス・グラバーと佐賀藩の合弁で、最新式の大規模な炭鉱開発が行われるようになった。

一方、端島で石炭が発見されたのは1810(文化7)年頃といわれる。岩礁に露出した石炭を漁師が見つけたことで、石炭の存在が明らかになった。ただその後、採炭が行われるようにはなったものの、ごく小規模にとどまっていた。漁民が本職である漁業の合間に、「磯掘り」と称して露出した石炭を掘る程度だった。

端島のある長崎県の西側海域は、良好な石炭が眠る海底炭田として、別名「西彼杵にしそのぎ炭田」とも言われていた。