世界史が変わる瞬間を見せた

なかでも記憶に残るのは、1986年2月にフィリピンで起こった市民革命である。当時のフィリピンは、マルコス大統領による長期独裁政権。そこに反マルコス派のリーダーとして市民から高い支持を受けていたベニグノ・アキノの暗殺事件が起こる。これを機に、反マルコスデモが一気に拡大した。そしてその革命の波は、アキノ夫人の新大統領就任という結末を迎える。

このアキノ新大統領の就任宣誓が、現地の午後10時。日本とフィリピンの時差はほぼないので、『Nステ』の開始と同時刻である。一方、政府軍と反マルコス軍の戦闘は続き、マルコス前大統領の国外脱出が伝えられるなど、まだ状況は刻々と動いている。

この日の『Nステ』は、アメリカCNNの映像や各所からの中継を織り交ぜながら、全編フィリピン情勢のニュースを伝えた。リポーターだった安藤優子は現地で取材を続け、国際電話で最新の情報を伝え続けた(久米宏『久米宏です。』)。この日の視聴率は19.3%を記録した。

こうして浮上のきっかけをつかんだ『Nステ』は、その後30%を超える視聴率もとるほどの番組へと成長していく。

テレビは「生」に限るとはよく言われることだが、この“革命の実況中継”は、その極みだった。生放送中に世界史にも残る出来事の現場が家に居ながらにして目撃できる。これほどテレビの持つ威力を実感させたケースもまれだろう。

テレビ朝日 アーク放送センター(写真=っ/CC-BY-SA-3.0-migrated/Wikimedia Commons

「僕はニュースキャスターではなく、司会者」

とはいえ、そうしたニュースを生かすも殺すも最終的にはキャスター次第。なによりも、久米宏の存在は大きかった。

久米は1944年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、TBSの局アナになった。しばらく頭角を現せずにいたものの、ラジオ『永六輔の土曜ワイドラジオTOKYO』の中継リポーターをきっかけに、テレビでもコント55号と共演した『ぴったし カン・カン』の軽妙な司会で一躍注目される存在となった。

その人気は、黒柳徹子とともに司会を務めた人気音楽番組『ザ・ベストテン』で不動のものになる。しゃべりの達人である黒柳に一歩も引かないトーク力、そして慌ただしい生放送をきっちり時間内に収める仕切りの技は他の追随を許さないものだった。1979年には、TBSを退社してフリーに。

『Nステ』は、そんな久米宏が取り組む初の報道番組だった。久米はバラエティや音楽番組のイメージが強く、『久米宏のTVスクランブル』(日本テレビ系)という情報番組も担当したが、かなりエンタメ色の強いものだった。それゆえ、久米が本格的な報道番組のキャスターを務めることを不安視する声も少なくなかった。

だが久米本人は、自分をニュースキャスターとは考えていなかった。