報道機関の重要な役割として「権力の監視」が挙げられるが、日本では浸透しているとは言い難い。日本の報道の問題点はどこにあるのか。アメリカ人ジャーナリスト2人の共著『ジャーナリストの条件 時代を超える10の原則』(新潮社)より、訳者・澤康臣さんのあとがきを紹介する――。
記者からの質問に答えるVIP
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民主主義にジャーナリズムは不可欠

ジャーナリストの条件』(原題 The Elements of Journalism)は米国ジャーナリズム論の代表的存在として世界中で読まれている。最初に発表された2001年以後、ジャーナリズムを取り巻く環境はデジタル激動の中で変化を続け、著者たちは2007年に第二版、2014年に第三版、そして2021年に第四版を出した。第四版は最初の版に比べて総ページ数で倍近い。この本は第四版の日本語訳である。

著者たちはジャーナリズムの現状を批判しながら、民主主義はジャーナリズムがあってこそ成り立つと一貫して訴え、報道現場を励ます。デジタル技術を重視しながら、プラットフォーマーは民主主義を真面目に支えるつもりがないと突き放す。そして真に市民に尽くそうとする者を求める。印刷所や放送設備・免許を持っているかどうかとも関係ない。

「10の掟」に中立や公平は入っていない

ジャーナリズムがジャーナリズムであるため必要なものは何なのか。

この本のエッセンスであるジャーナリズム10の掟には「真実」「事実確認」「良心」など、日本でも重視されるものが並ぶ。一方で、日本でしばしば論じられる中立や公平は、そこにない。

確かに日本でも報道に中立をことさら求めるべきでないと指摘する論は多く、例えば原寿雄は「『不偏不党』も『公平』も真実追求には、あまり役に立たない。しばしば矛盾する。たとえば公害問題で、加害者の企業と被害者住民側とを同じように並べて、その動きや意見を等分に放送するだけでは、ジャーナリズムと言えるだろうか」と指摘した(『ジャーナリズムの思想』岩波新書、1997)。

それでも、報道への中立要求は繰り返される。例えば放送番組が「政治的に公平であること」とする放送法四条の規定は、政府や与党支持者をはじめとする人々が放送局を「偏向」と非難する材料に用いられてきた。

本来この放送法四条は放送局に強制できない倫理規範であって、無理強いをすれば憲法の「表現の自由」の定めに反し違憲になるというのが「放送倫理・番組向上機構」(BPO)の2015年の見解であり、何より「ほとんどの研究者も同じ見解」だと川端和治は指摘する(『放送の自由』同、2019)が、そうした指摘はなかなか顧みられない。