自由の危機や社会の不正義を伝える義務がある
ジャーナリズムが主権者市民に忠誠を誓い、真の忠臣となるなら、ジャーナリストは誰からも支配されず独立の立場を保ち、社会と世界のひどい出来事、政治と経済の不首尾という沈鬱で不快な話を伝えなければならない。楽しい動物映像やスイーツ紹介が報道の名を借りてメディアを席巻するようになれば、市民は自由の危機も社会の不正義も知る機会を逸し、それらと闘うこともなく敗北する。
もう一つ、この本と日本式ジャーナリズム論との違いを感じさせるのは、日本で重視される「報道被害」や「書かれる側への配慮」を、この本はあまり大きな柱としていないことだ。
例えば220ページではシラキュース大学での一人のコーチによる性虐待という話を、まるで根拠を示さないまま公開シンポジウムで述べた人の事例が出てくる。シンポジウムはSNS実況までされ、情報は既に拡散している。
重視すべきは「読者・視聴者への責任」
その場にいたジャーナリストはどう報じるべきか。日本の報道実務感覚では、根拠が乏しいのならコーチの立場も配慮し、報道を控えることが求められそうだ。
だがこの本では配慮の方向が違う。読者・視聴者への責任を果たすことが本来の任務とされる。主権者市民の判断を誤らせないこと、よって関係者にすぐできる限りの取材を行って報じることを提唱する。
情報を控えるのでなく「(発言者が)その主張を裏付ける証拠を示していない」「壇上の他のセラピストたちはこうした中身のない告発が公表されたことに驚き呆れていた」という事情もしっかり示すことでこそ責任を果たせるのであり、それにより「公開の場で主張されたことを信じるか否かを人々が自分で判断できるよう、できる限り多くの情報で人々を装備させる」。
でもそんなことをすればSNSにこのネタの匿名投稿がますます増え、下世話な推測のまとめサイトが生まれるではないか。いや、問題はそこではないと著者たちは考えている。「読者・視聴者は大人として扱われなければならず、守られるよりも知らされなければならない」(222ページ)というのである。