市民に「ずっと完全な、正確な」情報を提供
あるいは1996年のアトランタ五輪爆破事件である。裏付け捜査がなされていない段階で『アトランタ・ジャーナル・コンスティトゥーション』が爆弾第一発見者リチャード・ジュエルを容疑者として大きく報じ、後に無実と分かる(208ページ)というひどい報道経過をたどったが、このことについては「警察がジュエルのあやふやな容疑を固める上でやれていなかった全てのことを、もしこの報道機関が記していたら、ニュースはこう大きくはならなかったかもしれないが、ずっと完全な――そして正確なものになっていただろう」と指摘する。
ここでも情報抑制ではなく情報の豊富化、つまり市民への「ずっと完全な、正確な」情報の提供なのである。見ての通り本書自体もジュエルの名を明示している。確かに市民への貢献が第一なら、実名で容疑者と報じられた後に無実と分かったこんなケースでは、本人の利益や名誉回復のためというより、市民の情報を更新し是正するために、無実という展開を同じ実名に基づき知らせる責任をジャーナリズムは負うことになる。
元容疑者がそれを望むかどうかとは別問題と言わざるを得ず、ではそうした当事者の意向や利害はといえば、これは取材対象から独立すべきジャーナリズムよりも、当事者の利益に尽くす広報や代理人弁護士が担うべき職責であろう。
「無難ジャーナリズム」は保身と怠惰にすぎない
言うまでもなく取材・報道対象への配慮は不可欠で、ジャーナリストは報道被害の深刻さを知り、反省し、慎重な姿勢を持つべきだ。報道はその内容が真剣であっても、あるいは真剣であるからこそ、時に残酷に人を傷つけ、人生にダメージを与えることを、思い知らなければならない。
だが今の日本のジャーナリズム現場には「報道の影響に配慮する」と言いながら「単に抗議や非難を避ける」ことが真の目的という空気さえ感じることがある。この本に出てくる表現をもじって「無難ジャーナリズム」や「事なかれジャーナリズム」とでも呼びたくなる。
この「無難ジャーナリズム」は誰かを気遣うように見せて、本当はメディア自身の保身と怠惰にすぎない。そしてこの本が強調する「監視犬」の噛みつく役割から逃避する。吠えなくていい理由、噛みつかなくてすむ理由を探しながら監視犬を僭称することは市民への裏切りである。