三淵嘉子は、家裁の少年審判で5000人もの少年少女と向き合う

その後、昭和57年に行われた座談会「家裁発足当時の思い出」では、嘉子さんが亡き宇田川さんをこのように評価しています。

「家庭裁判所草創期の情熱というのは、宇田川さんが、家裁関係の人に吹き込んだと思いますね」
「事務総局の中では、宇田川さんを理解する人は本当に少なかったと思いますから、最高裁の中では、宇田川さんが初代の局長であったということが、マイナスの面もなかったとはいえないけれど、家庭裁判所から見れば、徹底的にプラスですね」
(清永聡『三淵嘉子と家庭裁判所』日本評論社)

嘉子さんが東京家裁に異動したのは、少年事件が急激に増えていた時代でした。ドラマでは道男(和田庵)など、戦後まもなく、生きていくために少年たちが盗みをしていた時代を経て、美佐江(片岡凜)のような裕福な家庭の子どもによる動機の解明が難しい事件が描かれます。

写真提供=NHK
ドラマ「虎に翼」より、片岡凜演じる美佐江(右)

昭和30年以降、社会を震撼させる事件を起こす少年が続出

現実においても昭和30年代に入り、日本が徐々に豊かさを取り戻していく中、これまでの形では説明がつかないような少年事件が頻発するようになっていきました。「むしゃくしゃしたから」という理由で銃を使って殺害する事件や、政治的な動機の事件もありました。ドラマの道男のように生きていくためにやむを得ず行った犯罪とは明らかに違う、説明ができない少年犯罪が次々に起こるのです。

そうすると、社会は「少年」という存在を恐れるようになります。「少年法はいらない」「家裁は甘やかし」と批判を受けるようになります。三淵さんの功績は、昭和40年代以降の「少年事件戦後二度目のピーク」と呼ばれた時期に、少年に対する社会の目が厳しくなる中で「愛の裁判所」を掲げ続け、調査官たちと協力し「補導委託先」など関係機関とも積極的に連携して、少年たち一人一人の健全育成を図っていったということだと思います。つまり家裁創設時に宇田川潤四郎が掲げた理念を守ったということです。

三淵さんはある資料の中で、自ら「家庭裁判所の少年審判で私は5000人の少年少女と対面して審判してきた」と語っています。あまりに多いため本当だろうかと思ったのですが、当時を知る人に聞くと、少年審判が多い日には毎日8件ぐらい入っていたらしいです。朝から晩まで少年審判をしているような時代に、三淵さんは東京家裁に10年近く勤務していました。今ではそんな人数の少年審判を行う裁判官はいません。

出典=法務省「令和元年版 犯罪白書