恣意的に用いられるマンスプレイニング

よくある「マンスプレイニング」というコトバの使い方も、とても恣意しい的に使われうるので要注意だ。

マンスプレイニングとは「Man」と「explaining」を合わせた造語で、女性の側が求めているわけでもないのに、男性が上から目線で説明する振る舞いを指すという。

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しかし、ウィキペディアによると、「現在ではより広く使われるようになり、年令や性別を問わず、男性が誰に対しても見下したような口調で説明すること」を指すのだそうだ。要するに、このような新語は意味が使い手によって変じ続けたりするのだ。だから、このような言葉において「定義は何だ」とつっかかっても不毛な議論になることが多い。

もちろん、(その定義の厳密性とは関係なく)マンスプレイニングという現象が存在するのは間違いないだろう。それがかなり普遍的な社会、あるいは業界が存在しそうなことも容易に推測できる。

ただし、何をもってマンスプレイニングで、どういう説明の仕方ならマンスプレイニングに該当しないかは明示されない。よって、この言葉は恣意的に用いることができる。

「マンスプレイニング」という言葉の危うさ

誰かに意見されたり、注意されたりしたときに「あー、それってマンスプレイニングだ」と問答無用に言い放ってしまえば、それは無敵の言葉に変じてしまう。

この一種のオールマイティ性に、「マンスプレイニング」という言葉の一種の危うさがある。

ガザ地区の爆撃を批判すると「反ユダヤ主義だ」とアメリカなどでは強い非難が起きるそうだが、ユダヤ人のやることに懸念や反論をすれば全て「反ユダヤ主義」とラベリングしてしまえば、それは一種の「無敵状態」であろう。もちろん、同じロジックを「イスラモフォビア」に置き換えても同じことが言えるだろう。

要するに、大事なのは論理の「構造」である。その構造に何を代入するかによって意見が変われば、それは問題の構造よりも「立場」が大事、ということになるのだ。

女性、あるいは男性のフェミニストの「献身的追随者」が、「あなたの言ってることはマンスプレイニングだからダメだ」みたいな断言をするときの、まさにその言い方自体が実は問題なのではないか。

彼女、あるいは彼はまさに「上から目線で、自分のほうが相手より知識が豊富であるという思い込みを前提に」なされる言説だからだ。「マンスプレイニングだろ」という言い方そのものが(Manではないかもしれないのだけれど、その本質として)マンスプレイニング的だという皮肉である。