“情報の価値”を理解しているイスラエル
イスラエルは、ただ「戦う決意」があるだけでは十分でないことも学んでいきます。戦うためには「準備」が必要です。
1948年の第一次中東戦争の緒戦では、兵力も装備も優勢なアラブ軍が戦いを有利に進めていました。しかし、バーグマンの『イスラエル諜報機関 暗殺作戦全史』によれば、初代首相となっていたベン・グリオンは何年も前からアラブ諸国内に情報ネットワークを構築し、戦争直前にはその情報部門から5月15日に攻撃があることを事前に知らされ、攻撃の前から察知していました。
このため、ある程度の戦争準備はできており、ユダヤ人たちは素早く部隊を再編成して反撃に転じていきます。ヨーロッパからはホロコーストの生存者たちが応援に駆けつけ、最終的には国連の分割案で割り当てられた領土よりも広い土地を獲得して勝利したのです。
この経験がイスラエルにとって重要な別の論理を生むことになります。つまり、ベン・グリオンにとって、そして生まれたばかりのイスラエルという新生国家にとって「情報こそが決定的な役割を果たす」という論理です。これこそが中東最強と言われる強力な軍と、世界最高水準の情報機関をイスラエルが育ててきた背景にある論理です。
「イスラエルの最強の盾」モサドとは何か
ベン・グリオン首相は戦争後、これら3つのインテリジェンスの三本柱の元になった機関を設立します。イスラエル参謀本部諜報局「アマン」、総保安庁「シン・ベト」、そして海外での諜報活動を行う政治局です。政治局とは、のちに世界最強のスパイ組織としての名声を手にする諜報特務庁「モサド」です。
バーグマンが本で指摘している通り、特にモサドは新生ユダヤ国家である「イスラエルの最強の盾」としての役割が期待されていました。当時のベン・グリオンは首相兼国防相で、これら全ての機関を一人でコントロールしていたとされます。バーグマンによれば、政治権力がたった一人に集中する状況でしたが、これは国民には隠され、公の場でシン・ベトやモサドという名前に言及することは1960年代まで禁じられていたと言います。それぐらい厳重に秘匿されるほど重要な存在だったのです。
これらの諜報機関は公には存在していないことになっていたので、法的な裏付けもありませんでした。これにより3つの機関は、法律に縛られず、国家の安全を守るという大義のもと、暗殺や秘密工作などの違法行為を次々と実施していくことになります。