米国ユダヤ人財界の“支援疲れ”
テル・アヴィヴではユダヤ人機関の指導者たちが、同じ金銭上の憂鬱を味わっていた。一月のある夜、彼らは財政主任エリエゼル・カプランの報告をきくために呼び集められた。カプランは資金を集めに合衆国に行き、旅行から殆ど手ぶらでもどって来たのである。
アメリカのユダヤ人集団は長いあいだシオニスム運動の、財政上の主要な支柱だった。しかしパレスチナの同胞からの絶えることのない呼びかけに、いまは疲れはじめていた。現実を直視した方がいい、とカプランは進言した。これから来る苦難の何箇月かのあいだ、合衆国からもらえる金額は五百万ドル(※)以上を期待してはならない。
※編集部註:1947年当時のレートは1ドル50円の軍用交換相場
この数字は会議の席を、短剣の一撃のように打った。全員の視線が、報告を見るからに苛立たしげにきいていた蓬髪の小男に注がれた。ダヴィド・ベン・グリオン。彼はいまいわれたことがらのもつ深刻さを、ほかのだれよりもよく測定できる立場にいた。プラハで彼の使者エフド・アヴリエルが買付けた小銃と機関銃とは、パレスチナ・アラブ人の攻撃を防ぎ止め得るであろう。
手を挙げた女性がハンド・バッグ一つで渡米
だが介入を予想されるアラブ諸国正規軍の戦車、大砲、航空機にたいして、そんなもので何ができよう。ベン・グリオンはこのような脅威に抗し得る一軍をつくりあげる計画を、すでに抱いていた。しかしこれを実行に移すには、カプランの予想する金額の最小限で五、六倍を必要とするのである。彼は宣言した。
――カプランと私自身とで即刻アメリカに行かねばならない。アメリカ人に、状況の深刻さを納得させるのだ。
かつてデンヴァーの街頭でシオニスムのために募金していた女が、このとき口をはさんだ。
――あなたがここでなさっていることは、私にはできません。(とゴルダ・メイアーはいった)でも私たちに必要なお金を集めるために合衆国に行くことなら、私にも代理がつとめられます。
ベン・グリオンの顔が、紫色になった。彼はことばの腰を折られることを好まない。問題は生死にかかわる、と彼はこたえた。カプランといっしょに出かけねばならないのは、彼である。
同僚の支持を獲たゴルダ・メイアーは、投票にかけることを提案した。二日後、手軽な春のドレスを着ただけでハンド・バッグのほか何の荷物ももたないゴルダ・メイアーが、ニューヨークに着いた。寒い夜だった。出発があまりにも慌しかったので、着がえをとりにエルサレムまで行く時間が、彼女にはなかったのである。